堆朱の技法を伝えた家系。始祖は名を長充といい,足利義詮の命で延文年間(1356-61)にはじめて堆朱をつくったといわれる。楊成とは中国元代の名工張成と楊茂の1字をとって名づけたもので,以後代々,堆朱楊成を襲名した。しかし日本における堆朱製作の始祖は,一方で文明年間(1469-87)に活躍した京都住人の門入(もんにゆう)ともいわれ,明らかではない。《蒔絵師伝》によれば,門入の業を継いだ堆朱平十郎が慶長年間(1596-1615)徳川家に仕え,江戸神田小柳町に住むとあり,一説では平十郎を8代堆朱楊成長宗にあてる。9代長善,10代長是から将軍家の御用をつとめ,明治まで業を伝えた。明治維新によって堆朱家は不振に陥り,一時廃業したが,20代経長(豊五郎。1880-1952)によって継承再興され,経長は明治末から昭和にかけて活躍し,1949年芸術院会員に推された。
執筆者:郷家 忠臣
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明治〜昭和期の漆芸家
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室町時代以降、堆朱の技法を伝えた家系の世襲名。南北朝時代初期の延文(えんぶん)年間(1356~61)足利義詮(あしかがよしあきら)に仕えた長充(ちょうじゅう)を始祖とする。その作品が中国元(げん)代の彫漆(ちょうしつ)の名工張成と楊茂の作に劣らぬということから、両者の一字をとって、その子孫も代々楊成を名のった。2代長辰、3代長貞、4代長嗣、5代長繁、6代長房と続き、7代長親は豊臣(とよとみ)秀吉に仕えて茶器を制作、のち鎌倉に移住した。8代長宗は江戸の神田(かんだ)小川町に住んで徳川家に仕えたが、青貝を用いたその作品は鎌倉堆朱とよばれ、堆朱平十郎と同一人とも考えられている。9代は長善。10代長是が綱吉の堆朱師として幕府細工所に召し出されてからは代々徳川家の御用を勤めて18代国平まで続いたが、明治維新で中絶、19代経長(18代の長男好三郎)が再興を図って弟の豊五郎(1880―1952)に引き継いだ。豊五郎は1896年(明治29)に20代を襲名、1949年(昭和24)芸術院会員となり、内外の展覧会に新たなくふうを加えた作品を出品するなどして大いに活躍した。
[郷家忠臣]
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