百科事典マイペディア 「後法興院記」の意味・わかりやすい解説
後法興院記【ごほうこういんき】
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近衛政家(このえまさいえ)(1444―1505)の日記。書名は政家の法号後法興院にちなむ。寛正7年(1466)正月から応仁2年(1468)12月までと、文明11年(1479)正月から永正2年(1505)6月に及ぶ30年分が自筆原本で伝わり、陽明(ようめい)文庫に収められている。政家は1479年関白(かんぱく)、氏長者(うじのちょうじゃ)となり、88年(長享2)太政(だいじょう)大臣、97年(明応6)准三宮(じゅさんぐう)に至る。記事は朝儀をこまめに載せているばかりでなく、足利義政(あしかがよしまさ)との頻繁な往来を記し、応仁(おうにん)の乱(1467~77)を経て激動する当時の政治・文化史をみるうえでの基本史料。刊本として平泉澄校訂『後法興院政家記』2冊(1930・至文堂)がある。
[田中博美]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報