応仁文明の乱(読み)おうにんぶんめいのらん

改訂新版 世界大百科事典 「応仁文明の乱」の意味・わかりやすい解説

応仁・文明の乱 (おうにんぶんめいのらん)

室町時代末期にあたる1467-77年(応仁1-文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。

乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。たとえば三管領家の一つである畠山家では,1450年(宝徳2)に持国が家督を義就に譲って隠居した。ところが54年(享徳3)にいたり,神保・土肥・椎名などの反義就派被官が蜂起し,持国の甥弥三郎を擁立しようとしたことから,畠山氏の家臣たちは2派に分かれて争うことになった。しかも弥三郎派(その死後は政長)には細川勝元の支持があり,義就派には政所執事伊勢貞親の力が働いていたために,双方ともに継家を許されたり,処罰を受ける状態を繰り返していた。60年(寛正1)にいたり政長が家督を得,義就は河内国に没落した。ついで64年には政長が管領に就任した。

 斯波家の場合には52年(享徳1)に義健が嗣子のないままに没したため,一族の中から義敏が選ばれて家督を継いだ。しかし義敏は宿老甲斐常治との間に,しだいに対立を深めていった。甲斐常治は伊勢貞親の支持を受けていたが,領国では弟近江守との対立が続いており,ここでも家臣は2派に分かれて争っていた。そのような中で59年(長禄3)に古河公方の足利成氏の追討を命じられながら,義敏がこれに応じなかったために,幕府から罪科を受け,大内氏を頼って周防国に逃れた。義敏の跡職はその子松王丸に与えられたが,このころ勢力を強めてきた朝倉義景が中心となり,幕府に働きかけて61年(寛正2)に九州探題渋川氏の一族義廉に斯波家の家督を継がせることに成功した。細川勝元は義敏を,山名宗全は義廉を支持したことから,分国では家臣の対立が,幕府との関係では双方の家督争いが続いた。65年には義敏が幕府に召還され,翌年に家督を認められた。

 このほか信濃国守護小笠原家でも42年(嘉吉2)に政康が没すると,その子宗康と従兄持長が惣領職を争い,宗康が敗死したあとは弟光康が継いで,勢力を二分していた。このとき細川勝元は光康を,畠山持国は持長を支持していたといわれる。また加賀国守護の富樫家の場合には,教家と弟泰高の対立があったが,教家を畠山持国が,泰高を細川勝元が支援していた。

このように相次いで守護家の家督争いが起きたのには原因がある。何よりも一族内部における惣領の地位が重視されるようになったことが挙げられるし,永享の乱(1438),嘉吉の乱(1441)に代表されるように,守護家の惣領職の安堵・補任権をもとに,守護家の家督決定に幕府が介入したことが重視される。さらにその実質的権限が管領をはじめとする有力守護大名や幕臣の手に移ったことも注目される。そのため守護たちは幕府政治の動向に対する関心を深め,幕府内部で重要な地位を占めることによって,一族・被官の統率を図ろうとする。しかし当時の幕府政策は必ずしも守護大名やその家臣の要求とは一致していなかった。これが乱の第2の原因である。ことに57年(長禄1)以降の幕府では,奉行人や番衆に代表される将軍直轄下の勢力を基盤にして,政所執事伊勢貞親が中心となって,管領および守護大名勢力の抑制策が展開されたといわれている。そのことが守護大名の不満となっただけでなく,国人たちの要求とも対立したために,各地で国人による荘園の侵略や対立が激化した。

第3の原因となったのは,将軍家の家督争いである。将軍足利義政は,最初男子に恵まれなかったために,64年(寛正5)に弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ,義視と名のらせて正式に義政の後継者とした。ところが,その翌年に正妻日野富子との間に,男子の出生を見た。のちの義尚である。そのためこの義尚を将軍後継者としようとする日野富子が山名宗全を頼ったことから,義視を支持する細川勝元との対立を決定的なものとした。

第4の原因は,守護大名間の対立である。備前・播磨両国の守護職をめぐる山名氏と赤松氏の対立は,すでに長い期間に及んでいたし,伊予国守護職をめぐる細川・河野両氏の対立も同様であった。このような対立の頂点として細川勝元と山名宗全の反目が,しだいに強まってきた。

室町幕府は,このような混乱の中で,67年(応仁1)の年頭を迎えた。正月2日には将軍が管領邸を訪問することが恒例となっていたが,この年中行事が突如として中止されただけでなく,管領畠山政長の幕府出仕が禁じられた。これは管領の解任を意味するものであった。同日,政長と家督を争っていた畠山義就が幕府に出仕し,将軍に対面することが許されている。義就は将軍義政から処罰を受け,追討の綸旨まで出されていたのであるが,山名宗全の画策によって罪を許され,前年12月25日に上洛してきたばかりであった。5日には義就が山名邸を借りて将軍義政を招いて盛大な宴を張った。この席には多くの大名が相伴したが,政長を支持する細川勝元や京極持清などは不参であった。この席上での義就の申入れに従って,翌6日には政長に対して,その邸宅を明け渡すことが命じられた。政長は屋形の引渡しを拒否するとともに,戦闘の準備に入った。8日には山名方の斯波義廉が管領に任命された。これによって,幕府との関係において畠山家の家督争いは,政長派の優位から義就派に移行したことになる。また細川勝元,畠山政長と15年間にわたって,細川方で管領の職を独占してきた体制が打破され,山名・細川の対立が表面化した。このような状況の中で,15日には細川勝元,細川成之,京極持清,赤松政則らが共同して室町殿に出仕し,将軍義政に義就の治罰を強要しようとして,山名方に阻止されるという事件が起きた。このため翌16日には逆に将軍から細川勝元に対して,政長に味方することを禁ずる命令が出された。これに対して細川勝元は,山名方も畠山義就に味方しないことを条件に,これを受け入れた。しかし窮地に追い込まれた畠山政長は,細川勝元の援助を期待し,17日夜に屋形を自焼し,上御霊社に陣を張り,翌18日には義就派の兵と合戦を展開したが,敗北して京都より敗走した。この結果,細川勝元,山名宗全を頂点とする大乱はいったん回避され,畠山家内部の私闘で事は済まされた。

 しかしこの経過の中で将軍自身が,両畠山の合戦を認めたことは,幕府の存立基盤を放棄したこととして注目されている。武家政権は,一貫して私闘を禁止し,その原因を高次の立場から仲介することによって,その権力としての特性を維持してきたのである。したがって,畠山両派の対立を激化させ,私闘を許したことは幕府の無力化を示すものであった。しかもこれを契機に戦闘は各地に広がりを示した。2月中旬には細川分国の兵に上洛が命じられたことが風聞されていたし,山名方としては大内政弘が上洛するという情報が京都にとどいていた。播磨国では,細川方の赤松政則の兵が山名方を追い備前・美作両国に攻め込んでいた。越前,尾張,遠江では斯波義敏方の兵が,同義廉方の兵と争っていたし,若狭国では細川方の武田信賢が一色義直を攻めていた。このように両派の対立は,各地で対立を深めつつ,5月に入ると京都に各地からの軍勢が結集しはじめた。5月13日に畠山義就が楞伽寺(りようがじ)の寺中に陣取ったのをはじめとして,洛中寺社諸大名が布陣した。

このような中で細川勝元が5月20日に花の御所を押さえるとともに,一族をはじめとして味方の諸将を集めて臨戦の態勢を整えた。これに対して山名宗全は自邸を本拠とするとともに,同日山名宗全,同政清,畠山義就,一色義直が管領斯波義廉邸に集まって会合し,対決の姿勢を見せた。数日の小ぜり合いの後,5月26日に全面的な合戦が開始された。本陣の位置関係から,細川方を東軍,山名方を西軍と呼んだ。戦況は当初において東軍方が有利であった。何よりも,開戦に先んじて,花の御所を掌中におさめ,将軍義政や義尚・義視を手元に擁したことの意味は大きかったし,5月26,27両日の合戦においても,ほぼ東軍が勝利を牧めたといえる。さらに6月3日に細川勝元が将軍に山名宗全追討の命令を出させることに成功したことによって,東軍優位は確定した。ところが8月に大内政弘が周防,長門,豊前,筑前の4ヵ国の兵を率いて上洛するに及んで情勢は一変した。9月1日の三宝院合戦,同18日の東岩倉山の合戦,10月3日の相国寺合戦など,相次いで西軍方が勝利を牧め,東軍は花の御所を中心とした一角に追い込められてしまった。しかし,この状態で両軍は本陣を整備し,対陣したままで戦況は膠着状態に入ってしまう。そのような状況の中で,翌年11月に義視が幕府を抜け出して西軍に身を投じたことが大きな意味を持った。西軍側にも将軍に準ずる立場の人物が確保できたのであり,これによって不完全ながら西軍方にも幕府組織に相応する組織が成立した。その組織は〈西府〉と呼ばれていた。69年(文明1)に入ると,京都だけでなく全国各地で両派に分かれて争われるようになり,諸大名も領国の事情によって撤兵しなければならないものも現れ,京都の合戦は下火となっていった。

1473年(文明5)に山名宗全,細川勝元が相次いで没すると,和睦の機運が高まったが,東軍の畠山政長・赤松政則,西軍の畠山義就・大内政弘らは,山城一円において合戦を続けていた。77年にいたり畠山義就が河内国に下向し,大内政弘も領国に引き上げるに及んで,11年間にわたった応仁・文明の乱は終りをつげた。乱後に足利義政が計画した東山山荘造営において,全国への段銭賦課が失敗に終わり,山城の寺社本所領に負担させる形でしか実現できなかったことに象徴されるように,幕府権力は全国への影響力を急速に弱めた。全国各地では引き続き合戦が展開され,戦国時代の幕明けとなった。
戦国時代 →室町時代
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百科事典マイペディア 「応仁文明の乱」の意味・わかりやすい解説

応仁・文明の乱【おうにんぶんめいのらん】

15世紀後半の内乱。応仁1年(1467年)に起こり,一応の決着をみた文明9年(1477年)まで続いた。応仁の乱ともいう。将軍足利義政の弟義視(よしみ)と子義尚(よしひさ)の,さらに畠山・斯波(しば)両氏の相続争いを契機に,細川勝元山名宗全の二大勢力が激突。本陣の位置関係から細川方を東軍,山名方を西軍と呼んだ。この乱により幕府権力は失墜,荘園制は崩壊,在地武士勢力が台頭。戦国大名の領国化が進展した。→戦国時代西陣
→関連項目安居院芥川城浅井氏足利義尚足利義視足軽一条兼良一条家大部荘上京・下京河口荘観音寺城京都[市]河野氏後柏原天皇後土御門天皇後法興院記薩南学派実隆公記倭文荘斯波氏清見寺大乗院寺社雑事記高屋城垂水荘親長卿記坪江荘富樫氏富樫政親徳政一揆蜷川親元日記日本畠山政長畠山義就花の御所日野富子平安京碧山日録村櫛荘山城国一揆瑠璃光寺鹿苑寺六角氏六角征伐

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「応仁文明の乱」の解説

応仁・文明の乱
おうにん・ぶんめいのらん

15世紀後半の内乱。嘉吉の乱後,将軍の権威は失墜し,守護家におこった相続争いは家臣団の分裂・抗争を軸に激化,守護勢力相互の均衡関係も崩れ,室町幕府体制は動揺した。三管領(かんれい)のうち畠山・斯波(しば)両氏も家督をめぐる内紛でそれぞれ2派に割れ,ひとり勢力を維持した細川勝元と嘉吉の乱の功で強大化した山名持豊(宗全)が幕府の覇権を争う情勢となり,対立する諸勢力は両者のもとに結集し2大勢力が形成された。さらに将軍足利義政の後継をめぐる弟義視(よしみ)と実子義尚(よしひさ)の相続問題が両派の争いに結びついた。両派の武力衝突は1467年(応仁元)1月,畠山義就(よしなり)と同政長の間に始まり,それぞれ自派の守護の軍勢を京都に結集,同5月全面戦争に突入した。戦局は一進一退をくり返したのち膠着状態となり,戦火はむしろ地方へ拡大。乱にあたって東軍(細川方)は幕府を押さえ,西軍(山名方)も義視を擁し,幕府に似た政治機構を備えて対抗,東西二つの幕府の抗争として展開した。この間,在京守護大名の領国では守護代・国人(こくじん)の反乱や土一揆(つちいっき)がおこり,守護の帰国をうながした。73年(文明5)に持豊と勝元が病没すると覇権争いの色彩は薄れ,翌年4月両軍は講和。77年西軍の大内政弘が幕府に帰降するに及んで西幕府は崩壊,諸大名は領国に下り,京都の戦乱はいちおう終息した。乱の直接原因は家督争いや幕府での覇権争いだが,根本的には社会体制の変動にともなう諸矛盾に起因し,乱をきっかけとして諸国では守護代・国人あるいは守護による政治体制の再編成が進められた。乱ののち幕府・守護体制と荘園制は崩壊へむかい,幕府は山城を中心とする政権に転落,守護も多くは下剋上(げこくじょう)で没落し,時代は戦国大名の形成へむかった。

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世界大百科事典(旧版)内の応仁文明の乱の言及

【紀伊国】より


[畠山氏の分裂と根来・雑賀衆]
 永享年間(1429‐41)には,高野山で学侶と行人の抗争が起こり,守護畠山氏の勢力にもかげりがみえてくる。1460年(寛正1),細川勝元に支援された政長によって義就が守護を罷免されて以降,畠山氏は両派に分裂し,紀伊国は河内・大和国とともに激しい抗争の舞台となり,これが応仁・文明の乱に発展した。50年間にもおよぶ畠山氏の抗争は16世紀初頭に終息するが,この間に勢力をたくわえてきたのが根来衆と雑賀(さいか)衆である。…

【斯波義廉】より

…義敏が大内氏の力を背景に一時家督を回復すると,義廉はただちに義父山名持豊を頼んで再び家督についた。この家督争いが応仁・文明の乱の一因となった。西軍に加わった義廉は,67年(応仁1)管領となったが,朝倉氏の勢力台頭によって衰えていった。…

【斯波義敏】より

…61年斯波家の家督を義廉に替わられた。66年(文正1)大内氏の助力によって3ヵ国守護職を回復するが,山名持豊を頼った義廉に再び奪回され,細川勝元を頼ることとなり,応仁・文明の乱の要因になった。乱の過程で衰えた斯波家は二度と興隆しなかったが,81年(文明13)斯波家嫡流の事跡を記した義敏作の《斯波家譜》は,その顕彰碑だったともいえよう。…

※「応仁文明の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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