後田村
うしろだむら
[現在地名]羽黒町後田
中島村の南、蛇行する黒瀬川と北流する因幡堰に囲まれた平坦地に位置する。村の中央を中世の六十里越街道と伝える松根村(現櫛引町)と藤島村(現藤島町)とを結ぶ道が南北に走り、村の東端黒瀬で東西に走る羽黒街道と交差する。この交差点近くの黒瀬川断崖上に、後田館(黒瀬館とも称す)があり、榎本讃岐守の居館と伝える(「筆濃余理」など)。また楯村(現在の楯東)には俗にゴロンドと称する五郎大夫殿館(一名、五郎が館)跡があり、「病間雑抄」には榎本讃岐守の家老屋敷跡とする。天正一六年(一五八八)十五里ヶ原の合戦で敗退した最上方の将東禅寺筑前守の軍勢が当地に布陣、上杉方の越後村上城主本庄繁長軍を迎え撃ったが大敗し、これを機に庄内地方は上杉氏領となった。
後田村
うしろだむら
[現在地名]高山町後田
前田村の西と南を占め、小さく蛇行しながら北流する高山川中・上流域にあたる。西は姶良郷麓村・上名村・下名村(現吾平町)、南は内之浦郷岸良村(現内之浦町)。「高山名勝志」によれば古くは鶯村と称し、その後、後田村と改称し、それから西方村(のち前田村)と合村して和泉田村となり、さらにもとの二ヵ村に分れたとされる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では和泉田村。
後田村
しへだむら
[現在地名]那賀町後田
紀ノ川の北岸、名手川が紀ノ川に流入する付近の東に位置する。東は西野村、南は紀ノ川を境に西脇村、西は池田垣内村に接する。紀ノ川の氾濫地域の村であるが、古代の条里の地割遺構が検出される。中世は高野山領で、東隣の西野村とともに名手庄西村とよばれた。後田という地名は永享四年(一四三二)三月一九日付の名手庄中村検注帳(勧学院文書)に「尻江田」と記され、「粉河寺旧記控」(粉河寺文書)所収の応仁元年(一四六七)五月一九日付の文書に「後田」とみえる。「続風土記」は「斯遍駄」と訓ずる。
慶長検地高目録も西野村の地を含めて西村と記しており、天和二年(一六八二)以前に分村したと思われる(→西野村)。
後田村
うしろだむら
[現在地名]津和野町後田
津和野城下町の東裏、青野山(九〇七・六メートル)西麓、津和野川右岸の緩丘に立地。津和野城下五ヵ村の一。寛永一四年(一六三七)の検地帳(津和野町郷土館蔵)によれば田高一一二石余・八町五反余、畑高二〇石余・六町一反余、名請人は田畑共で一一〇、うち屋敷登録人四・無屋敷登録人三七・入作一・津和野町人三七・同職人一七、津和野藩物頭付下人五・神主五・寺院四(津和野町史)。これ以前から村域の一部は侍屋敷・町屋などに取込まれ町場化していたとみられ、同年以降の津和野城下形成の過程でも村内耕地が町人町の本町・上本町・今市・下本町・上魚町・下魚町・大工町・横町・新町や幸盛寺・妙寿寺・祇園社御旅所などに割譲されていった(同書)。
後田村
うしろだむら
[現在地名]下関市後田町二―三丁目・石神町の各全域、および幡生本町・幡生町一丁目・向洋町一丁目・上田中町一丁目・同七丁目・栄町・羽山町・後田町一丁目・同四―五丁目の各一部
現下関市の南部にあたり、北は幡生、東南は赤間関後地、西南は大坪の各村に接する平地の小村。長府藩領で東豊浦郡前支配に属する。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「後田」とみえる。同一五年の検地帳にも「後田」とあり、椋野と合石記載される。総石高四六三石余、うち田三一町余で三九八石、畠一二町余で四四石余、百姓屋敷四六。豊浦藩明細書によれば「後田村」とされ、幡生村と合石で記される。
後田村
うしろだむら
[現在地名]庄内町西 後田
大分川左岸の河岸段丘上にあり、南は武宮村、北西は蓑草村。慶長六年(一六〇一)府内藩領となり、寛永一一年(一六三四)一部が亀川藩(のち中津留藩・高松藩)領になったと考えられる。正保郷帳に村名がみえ府内藩領の高一一石余、うち田高七石余・畑高三石余、阿南庄に所属。高松藩領の高一一四石余、うち田高七五石余・畑高三八石余、穴見庄に所属。高松藩領分は明暦四年(一六五八)藩主松平(大給)忠昭の府内入部の際幕府領になり(同年「御取ヶ郷帳」府内藩記録など)、このとき分村して蓑草村と称したと考えられる。
後田村
うしろだむら
[現在地名]いわき市後田町
鮫川下流左岸にあり、西は仁井田村、北は高倉村、東と南は植田村。菊多郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に「うしろ田村」とあり、高二〇二石。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高二四六石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 