日本歴史地名大系 「御手洗町」の解説
御手洗町
みたらいまち
寛永一五年(一六三八)大長村地詰帳(宇津神社蔵)は田畠畝数五五町余、屋敷四反五畝余(屋敷筆数五四)を記すが、このうちのちの御手洗町に属する田畠は八町六反余で四〇・八二六石とあるが、屋敷は一筆も認められず、当時の小字「みたらい」は八畝(一斗六升)が名請されるにすぎない。このように寛永期には、大崎下島東端の農耕地にすぎなかったが、西廻海運の発展によって、四方からの風をいちおうさえぎる地形の御手洗湾は、風待ち・潮待ちの廻船が寄港するようになった。ために大長村の百姓は、寄港船へ野菜・薪・水などを売ることを始め、御手洗へ移住するものもでたようである。このような状況から、寛文六年(一六六六)村人による御手洗の町割嘆願が許可され、急速に港町が形成された。その後、寄港船の増大に伴って、大長村のみならず、
「国郡志下調書出帳」には、海駅としての御手洗について、次のように記される。
御手洗に寄港した公船は、オランダ人を乗せた船、漂着した南京人やその他異国人を長崎へ送る船などの外国人の寄港、琉球王の使者、流罪人の船、長崎奉行はじめ、四国などの幕府直轄領へ往復する幕府役人らが主なものであった(豊町役場蔵文書)。文化一一年オランダ人が遊女屋の若胡屋で遊んだ史料(同文書)には「正月廿三日阿蘭陀人若胡屋ヘ参ル、遊女五人芸子五人同家ヨリ出ス、右入用料として金弐両御用船ヨリ被遣候事、右之金其儘若胡屋ヘ遣候、右入用弐両之内ニ而同家ヨリ払出候」とある。シーボルトも文政九年(一八二六)江戸からの帰途、六月二四日に御手洗に寄港、数名の町民の求めに応じて診察している(江戸参府紀行)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報