地名の由来を「地下上申」は「往古青柳之浦と申たる由、然所に推古天皇年中青柳之浦の松に七やうの星天下り給ふのよしに付、夫より下松と申伝候由に候」とある。
建徳二年(一三七一)に九州探題として下向した今川了俊の「道ゆきぶり」には、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山口県南東部、周防灘(すおうなだ)に面する重化学工業都市。1939年(昭和14)下松町と花岡村、久保村、末武南(すえたけみなみ)村が合併し、市制施行。1954年(昭和29)米川(よねかわ)村を編入。下松は百済津(くだらつ)に由来する地名ともいわれ、笠戸(かさど)湾に臨む宮ノ洲(みやのす)付近は中世から良港として知られた。近世後期から明治期にかけて製塩業地として発達し、1897年(明治30)山陽鉄道(現、JR山陽本線)が開通。大正中期から塩田跡を工業用地に転換し、笠戸ドック(1987年解散)、日立製作所(車両)、日本石油(現、ENEOS)、東洋鋼板の工場が立地し、重化学工業都市に変貌(へんぼう)した。1994年(平成6)には市の中央部に新たな工業・物流の拠点として「周南工流シティー」が完成した。臨海工業地の背後には古代の条里遺構を残す末武平野が開け、周辺の丘陵地は住宅化が進んでいる。旧山陽道に沿って宿駅、市場町として発達した花岡があり、ここを東西にJR岩徳(がんとく)線と山陽新幹線、国道2号が走り、国道188号が交差する。花岡八幡宮(はちまんぐう)境内にある室町時代の閼伽井(あかい)坊塔婆(多宝塔)は国の重要文化財。福徳稲荷(いなり)の稲穂祭で行われる「きつねの嫁入り」行列はよく知られている。瀬戸内海国立公園に含まれる笠戸島は1970年笠戸大橋で結ばれ、家族旅行村などがあり、近郊レクリエーション地になっている。面積89.36平方キロメートル、人口5万5887(2020)。
[三浦 肇]
『『下松市史』(1989・下松市)』
山口県南東部,周防灘沿岸の笠戸湾に臨む工業都市。1939年市制,54年米川村を編入。人口5万5012(2010)。南部の沿岸の宮ノ洲古墳は4面の舶載鏡を出土した前期古墳として知られる。南西部の末武平野には古代条里制の遺構が広範囲に残る。《和名抄》の生屋郷は山陽道に沿う花岡,生野屋付近にあたり,近世萩藩の都濃宰判勘場(代官所)のおかれた花岡は宿駅,市場町として栄えた。花岡八幡宮の閼伽井(あかい)坊の塔婆(多宝塔)は重要文化財で室町期の繊麗な手法を伝える。中世からの港町下松は近世後期の干拓によって製塩業地として発展し,明治期には内海航路の寄航地であった。1897年の山陽鉄道(現,山陽本線)開通によって港町としての機能は衰えたが,大正以降は造船,金属,車両,石油の近代工場が設置され,工業都市に変貌した。第2次大戦後末武川上流に温見ダムが完成し,塩田跡地に火力発電所が新設され,隣接する周南市,光市とともに周南工業地域の一翼をなす。瀬戸内海国立公園の一部になっている。対岸の笠戸島との間には1970年に笠戸大橋が架けられた。市域中部をJR岩徳線が通る。
執筆者:三浦 肇
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