江戸幕府第4代将軍徳川家綱の代の大老。上野国前橋城主。1637年(寛永14)父忠行の遺領のうち10万石を相続,弟忠能に2万2500石余を分与する。翌年従五位下河内守に叙任。41年従四位下,翌年侍従に昇進。51年(慶安4)左近衛少将に昇り,雅楽頭(うたのかみ)に改める。53年(承応2)老中に任ぜられたが,松平信綱,阿部忠秋ら前代の遺老をこえて上首につき,月番による日常政務は免除された。66年(寛文6)大老に昇り,領地も63年3万石,80年(延宝8)2万石加増,合計15万石となる。酒井は徳川譜代最高の名門で,歴代元老の地位にあり,ことに忠清の時代は門閥の権威が増大し,しかも将軍家綱は病弱,前代の遺老が相次いで死去あるいは老衰したので,忠清は専権をふるいうる立場となった。彼の役宅が江戸城大手門下馬札前にあったところから〈下馬将軍〉との異名をうけるほど,忠清は権勢をほしいままにし,政治が腐敗,停滞したというのが通説的評価である。しかしこの時期の幕政をみると,近世社会の変質期に入って領主的支配全般の弛緩があらわれ,農民の抵抗も高揚する傾向を示し始めた事態に対応し,幕府主導による領主的支配の強化に少なからず努力している。例えば1668年の倹約令は,朝廷を含めて全社会層を対象とし,諸藩政へも強く反映した点において前後に比をみぬものであり,また大名・諸役人への監察強化も著しい。こういう一連の権力集中強化政策が忠清専権の批判を生んだのであろう。しかし忠清の権威が門閥に依拠する限り,固定化した格式の制約を免れず,幕政を事態に対応して新展開させるには限界が明瞭であった。忠清は1680年綱吉が5代将軍に就任するとともに罷免された。その理由については当初から種々の説が流布しているが,いずれも信憑性はない。結局,幕政の刷新を意図する綱吉にとって,まず門閥の権威打破が不可欠だったからであろう。忠清は翌81年2月隠居して家督を嫡子忠挙(ただたか)に譲り,5月19日死去した。法号を大昌院という。
執筆者:辻達也
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江戸前期の譜代(ふだい)大名。上野(こうずけ)(群馬県)前橋城主。4代将軍徳川家綱(いえつな)時代の老中首座。大老とも称される。徳川将軍家と同祖とされる譜代の名門雅楽助(うたのすけ)酒井氏の忠行(ただゆき)の嫡男として生まれる。祖父忠世(ただよ)は2代秀忠(ひでただ)、3代家光(いえみつ)の老中として功績が大きかった。父忠行は1636年(寛永13)病没し、翌年忠清は14歳で前橋城主となった(10万石、のち15万石)。父祖以来重臣として主家を補佐する家格に従って忠清も奏者(そうじゃ)とされるなど要職についていった。また相続後、従(じゅ)五位下、河内守(かわちのかみ)に叙任され、ついで従四位下、侍従(じじゅう)となり、さらに少将に進み、雅楽頭(うたのかみ)と改めた。51年(慶安4)家綱が11歳で4代将軍の座につくと、忠清は重臣としてこれを補佐し、53年(承応2)老中首座にあった酒井忠勝(ただかつ)(小浜(おばま)藩主)と同列という格で老中に任ぜられ、座位は忠勝の上席とされた。家格による任命である。これ以後、とくに前代からの老中酒井忠勝、松平信綱(のぶつな)ら亡きあとは名実ともに幕閣の中心として将軍政治を支え、「寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)の治」ともいわれる安定した幕藩秩序をつくりあげていった。その屋敷が大手門下馬札(げばふだ)のあたりにあったことから「下馬将軍」と称せられたなどはその権勢の強さを示している。家綱没時に宮将軍を擁立しようとしたとか、越後(えちご)騒動の取扱いが不当であったなどの非難も受けているが、これは綱吉(つなよし)が5代将軍になるとまもなく忠清が失脚したことと関連していわれるものであろう。
[林 亮勝]
『林亮勝著「酒井忠清」(『江戸幕府 上』所収・1964・人物往来社)』
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(大森映子)
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1624~81.5.19
江戸前期の老中・大老。上野国前橋藩主。忠行の嫡男。忠世の孫。雅楽頭(うたのかみ)。1637年(寛永14)家督を継ぎ10万石を領した。翌年奏者を勤め,41年従四位下に叙任。51年(慶安4)少将,雅楽頭に改めた。53年(承応2)筆頭老中,66年(寛文6)奉書加判を免じられ大老。4代将軍徳川家綱のもと,老中阿部忠秋の引退後は独裁的な権力をふるい,屋敷が大手門下馬札の前にあったことから,下馬将軍と称されるほどであった。80年(延宝8)徳川綱吉の将軍就任後,失脚。
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…叔父伊達兵部少輔宗勝,庶兄田村右京宗良がそれぞれ3万石を分知され後見となり,幕府国目付の毎年派遣の下に藩政が行われた。奉行奥山大学常辰が当初権勢をふるったが,兵部(宗勝)は63年(寛文3)これを罷免,幕府老中酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行原田甲斐や側近出頭人を重用して一門以下の反対勢力を弾圧,斬罪切腹17名を含む120名余を処分した。66年には亀千代毒殺未遂のうわさがたち医師河野道円父子が殺害され,68年にも同様の事件があって兵部らの陰謀とする非難が高まった。…
…幕府もこの事態に対応するため,全領主的支配を強化しようと努力したが,4代将軍家綱が病弱で政務の主導力に欠け,固定化した格式制度が政治刷新の障害をなした。当時幕政に専権をふるったのは譜代最高の門閥の権威を背景とした大老酒井忠清で,役宅が江戸城大手門下馬札前にあったところから〈下馬将軍〉の異名を受けたほどであったという。 1680年(延宝8)5月将軍家綱が死去し,将軍となった弟の綱吉は直ちに忠清を罷免した。…
…上野国(群馬県)前橋城に藩庁をおいた譜代中藩。城は戦国末期に上杉氏の関東進出の拠点であった。1590年(天正18)徳川家康の関東入国に伴い,その側近平岩親吉が甲斐御嶽衆を率いて入封,立藩した(3万3000石)。在城11年に及ぶが治績は不詳。ついで1601年(慶長6)武蔵川越から酒井重忠が封ぜられ(3万3000石),以後酒井氏の治政が9代150年間続いた。酒井氏は徳川氏と同祖と伝える名門である。重忠の子忠世,その孫忠清はともに老中,大老となって創業期の幕閣に重きをなしたが,とくに忠清は将軍家綱の治政に独裁的権勢を振るい,下馬将軍といわれた。…
※「酒井忠清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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