平安時代の明法家(律令学者)。生没年不詳。もと秦公(はたのきみ)の姓で,讃岐国香川郡の出身。877年(元慶1),兄の直宗(なおむね)とともに本居を改めて平安京左京六条に貫せられ,883年惟宗朝臣の姓となる。検非違使右衛門尉,勘解由次官等に任じ,902年(延喜2)には主計頭兼明法博士であったことが知られる。明法道よりおこして斯界の重鎮となり,晩年,宣旨をたまわって私第において律令を講じた。これは,かつて文徳天皇から〈律令の宗師〉とたたえられた讃岐永直(さぬきのながなお)が,その晩年にやはり私第で律令を講じた先例を襲ったものである。著書に《律集解(りつのしゆうげ)》30巻(現存せず),《令集解(りようのしゆうげ)》(もと50巻か。一部現存),《検非違使私記》2巻(現存せず)があり,曾孫の允亮(ただすけ)が著した《政事要略》に引用されている《交替式私記》(2巻か)も直本の著と推定される。
執筆者:早川 庄八
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生没年不詳。平安前期の官人で明法家(みょうぼうか)。877年(元慶1)兄直宗(なおむね)とともに本貫を讃岐(さぬき)国(香川県)香川郡から平安京の右京六条に移し、883年、一族とともに秦公(はたのきみ)を改めて惟宗朝臣(あそん)の姓を賜った。清和(せいわ)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)、宇多(うだ)、醍醐(だいご)の5天皇に仕え、弾正忠(だんじょうのちゅう)、右衛門少志(うえもんのしょうし)、検非違使右衛門尉(けびいしうえもんのじょう)、勘解由使次官(かげゆしのすけ)を経て主計頭(かずえのかみ)となり、明法博士(はかせ)を兼任。法律学者として私邸で律令(りつりょう)を講ずる栄誉に浴した。同時に検非違使別当を兼ねた左大臣藤原時平(ときひら)の諮問に答え、刑政の実際にも深く関わっている。
その撰述(せんじゅつ)著作には『令集解(りょうのしゅうげ)』『律集解(りつのしゅうげ)』『検非違使私記』などがある。散逸したものが多いなかで、27巻を伝え残す『令集解』は、律令時代の法律学のみならず、その運用の実態を示し、さらに母法となった唐令の条文を復原する貴重な史料となっている。
[谷口 昭]
『布施彌平治著『明法道の研究』(1966・新生社)』
(瀧浪貞子)
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直基とも。生没年不詳。平安前期の明法(みょうぼう)家。直宗(なおむね)は兄。検非違使(けびいし)在任中に「検非違使私記」を著すなど明法学者として活躍。907年(延喜7)には明法博士となり,奉じた勘文(かんもん)の一部は「法曹類林」「源語秘訣」に引用される。私邸で律令を講じることが宣旨で許され,「令集解(りょうのしゅうげ)」「律集解」を残す。
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…《令義解(りようのぎげ)》はこうした気運のなかで撰定された公的注釈書である。その後,公的な律令講書が貞観(859),延喜(年未詳),長保(999)の3回開かれたことが知られており,またその間に惟宗直本(これむねのなおもと)によって《律集解》《令集解》が編纂されたが,以後は律・令の全篇にわたる注釈書はみられず,律令学はわずかに惟宗氏,坂上氏,中原氏などに家学として伝えられたにすぎなかった。降って室町時代に一条兼良は《令抄》を著したが,これも古来の注釈を摘記したものにすぎない。…
…しかしそのなかには,《令集解》ではない〈令私記〉(個人の著した令の注釈書)が3巻含まれている。編者は,9世紀末から10世紀はじめにかけて明法博士(みようぼうはかせ)に任じ,明法道(律令学)の重鎮と目されていた惟宗直本(これむねのなおもと)。編纂の時期は明らかではないが,860年代ころとみられる。…
※「惟宗直本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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