明法道(読み)みょうぼうどう

精選版 日本国語大辞典 「明法道」の意味・読み・例文・類語

みょうぼう‐どう ミャウバフダウ【明法道】

〘名〙 =みょうぼう(明法)④⑤⑥〔職原鈔(1340)〕

めいほう‐どう メイハフダウ【明法道】

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デジタル大辞泉 「明法道」の意味・読み・例文・類語

みょうぼう‐どう〔ミヤウバフダウ〕【明法道】

律令制大学寮での四道の一。律・令・格・式など法律学を学ぶ学科。奈良中期に明経道から独立して新設。

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改訂新版 世界大百科事典 「明法道」の意味・わかりやすい解説

明法道 (みょうぼうどう)

律令制下,大学寮に設けられた4学科の一つ。大宝令制では経学(のち明経(みようぎよう)道)が本科であり,法(律令)の学である明法はまだ学科となっていなかった。しかし728年(神亀5)の律学博士設置をうけて,730年(天平2)には博士2名,学生10名が創設されて明法が学科として独立し,さらに802年(延暦21)には学生10名が増員された。8世紀中葉から9世紀中葉にいたる時期は,大陸からの継受法たる律令の咀嚼(そしやく)・吸収の時期であり,明法道も一時隆盛に向かった。この時期には讃岐(さぬき)広直,同永直,同永成,穴太内人(あなほのうちひと),興原敏久(おきはらのみにく),額田今足(ぬかたのいまたり),惟宗直本(これむねのなおもと)など幾多の俊秀が輩出し,古記,令釈,跡記,朱記,穴記,額記,《令義解》《令集解》などの律令注釈書が彼らによって著された。しかし,平安中期に入ると,貴族子弟の関心が公卿の必須の教養となった紀伝道に集中し,律令の学が軽視され,一時衰微した。また明法道出身者の位階も,低くおさえられた。この間,10世紀末,11世紀初頭の傑出した明法家として惟宗允亮(ただすけ)があり,《政事要略》を著した。11世紀末,12世紀の院政期になると,土地領有や売買貸借をめぐる訴訟の激増から,法学は再び活発化し,坂上明兼によって《法曹至要抄》が著され,律令にかわる現行法として機能していった。この後,明法道の学問は坂上・中原の両氏に世襲され,その家学となった。鎌倉期に入って,坂上明基によって《裁判至要抄》が,中原章澄によって《明法条々勘録》が,また中原章任(のりとう)によって《金玉掌中抄》が著された。南北朝期に入り,建武新政樹立とともに雑訴決断所等の訴訟機関職員として多くの明法家が登用され,また中原道昭(法名是円)は《建武式目》の起草者として名をあらわした。しかし,公家政治の形骸化にともなって,明法道も有職故実の学に堕し,現実的意味を失っていった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明法道」の意味・わかりやすい解説

明法道
みょうぼうどう

大学寮の一学科で、律令(りつりょう)の研究、教授を行った。教官を明法博士(はかせ)、学生(がくしょう)を明法生と称するが、令の規定にはみえず、728年(神亀5)に教官2、学生10を置いた。令制に明法道の教科書はみえないが、学生は律と令とを学んだと思われ、『延喜式(えんぎしき)』では律を大経、令を小経に准じ講説すると規定している。

 明法道出身者を試験する明法試は律令10条を問い、義理に識達し問われて疑滞なきものを通とし、全通を甲、8以上通を乙とし、位階を与えた。明法道出身者は多く刑部(ぎょうぶ)省、弾正台(だんじょうだい)、衛門府(えもんふ)などの官人に採用され、専門知識を生かした。法律知識を有する官人への需要は多く、802年(延暦21)には明法生の定員が20人に加増されている。ただし刑獄を扱うことから上級貴族にして明法道に学ぶものは少なく、教官、学生ともに卑姓出身者で占められた。律令を習得した明法生が明法試を受けるのが令規であるが、10世紀後半になると明経得業生(とくごうしょう)ないし准得業生の宣旨(せんじ)を受けたもののみが明法試を奉ずるようになった。9世紀から11世紀にかけて讃岐(さぬき)氏や惟宗(これむね)氏から卓越した明法家が輩出したが、11世紀末になると坂上(さかのうえ)、中原両氏が明法博士家として固定し世襲となった。

[森田 悌]

『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明法道」の解説

明法道
みょうぼうどう

古代の大学寮の四道の一つで,法律について教授した学科。明法博士2人の教授陣と,その下で学ぶ明法得業生(とくごうしょう)2人,明法生20人からなり,令制の明法試に対応した。明法試は律から7問,令から3問出題され,全問正解の甲第と8~9問正解の乙第が及第とされ,それぞれ大初位(だいそい)上,大初位下に叙されて出仕を認められた。明法得業生が正規の受験資格者として位置づけられたことは重要である。及第者は,明法博士のほか,刑部(ぎょうぶ)省や検非違使(けびいし)などの法律の知識を必要とする官司で活躍した。また813年(弘仁4)以降は,6~7問正解の者の国博士への任用が認められるようになった。明法試を受験できなかった者についても,年挙(ねんきょ)などによる任官の道が開かれていた。

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百科事典マイペディア 「明法道」の意味・わかりやすい解説

明法道【みょうぼうどう】

律令制下の大学寮における四道の一つ。律令を専攻する学科。730年に独立学科となったが,高級貴族には法律学修得の必要がなく,このため平安中期には令制の衰微に伴って衰退,坂上(さかのうえ)・中原両家の家学となった。
→関連項目政事要略明経道

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明法道」の意味・わかりやすい解説

明法道
みょうぼうどう

律令制の大学寮における4学科の一つ。大宝令では独立の学科ではなかったが,試験科目としては明法の1科も存在した。天平2 (730) 年律学博士 (のち明法博士と改められた) 2名,学生 10名がおかれ,大学寮の学科四道の一つとなった。平安時代中期以降,文章道 (もんじょうどう) の隆盛に相反して,法律を学ぶものが少くなり大学におけるそれは衰退していった。しかし,鎌倉時代初期から明 (あき) または章 (のり) の名をもつ坂上,中原両家の一族が明法博士を世襲し,両家の家学となり,戦国以降中原系の勢多,坂上系の町口両家がこれを継承した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「明法道」の解説

明法道
みょうぼうどう

律令制度下の大学で律令を講究する学科
令では特に規定はないが,730年独立。平安初期に盛んになったが,中期以降文章(紀伝)道が盛んとなり貴族の必修教養になるにつれて衰えた。12世紀ころから中原・坂上 (さかのうえ) 氏の家学となった。

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世界大百科事典(旧版)内の明法道の言及

【坂上氏】より

…その子が蝦夷征討に活躍した田村麻呂(たむらまろ)で,征夷大将軍となり,武功により従三位にのぼり,さらに正三位大納言となる。田村麻呂ののちは武門氏族としての坂上氏はおとろえたが,平安時代末期に明法道(みようぼうどう)の家として再び名をあげる。すなわち定成(1088没)が坂上氏としてはじめて明法博士となり,ついで明経道の中原氏から定成の養子になったと推定される明法博士範政は,〈法家坂上一流の祖〉と称された。…

※「明法道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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