律令制下,大学寮に設けられた4学科の一つ。大宝令制では経学(のち明経(みようぎよう)道)が本科であり,法(律令)の学である明法はまだ学科となっていなかった。しかし728年(神亀5)の律学博士設置をうけて,730年(天平2)には博士2名,学生10名が創設されて明法が学科として独立し,さらに802年(延暦21)には学生10名が増員された。8世紀中葉から9世紀中葉にいたる時期は,大陸からの継受法たる律令の咀嚼(そしやく)・吸収の時期であり,明法道も一時隆盛に向かった。この時期には讃岐(さぬき)広直,同永直,同永成,穴太内人(あなほのうちひと),興原敏久(おきはらのみにく),額田今足(ぬかたのいまたり),惟宗直本(これむねのなおもと)など幾多の俊秀が輩出し,古記,令釈,跡記,朱記,穴記,額記,《令義解》《令集解》などの律令注釈書が彼らによって著された。しかし,平安中期に入ると,貴族子弟の関心が公卿の必須の教養となった紀伝道に集中し,律令の学が軽視され,一時衰微した。また明法道出身者の位階も,低くおさえられた。この間,10世紀末,11世紀初頭の傑出した明法家として惟宗允亮(ただすけ)があり,《政事要略》を著した。11世紀末,12世紀の院政期になると,土地領有や売買貸借をめぐる訴訟の激増から,法学は再び活発化し,坂上明兼によって《法曹至要抄》が著され,律令にかわる現行法として機能していった。この後,明法道の学問は坂上・中原の両氏に世襲され,その家学となった。鎌倉期に入って,坂上明基によって《裁判至要抄》が,中原章澄によって《明法条々勘録》が,また中原章任(のりとう)によって《金玉掌中抄》が著された。南北朝期に入り,建武新政樹立とともに雑訴決断所等の訴訟機関職員として多くの明法家が登用され,また中原道昭(法名是円)は《建武式目》の起草者として名をあらわした。しかし,公家政治の形骸化にともなって,明法道も有職故実の学に堕し,現実的意味を失っていった。
執筆者:棚橋 光男
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大学寮の一学科で、律令(りつりょう)の研究、教授を行った。教官を明法博士(はかせ)、学生(がくしょう)を明法生と称するが、令の規定にはみえず、728年(神亀5)に教官2、学生10を置いた。令制に明法道の教科書はみえないが、学生は律と令とを学んだと思われ、『延喜式(えんぎしき)』では律を大経、令を小経に准じ講説すると規定している。
明法道出身者を試験する明法試は律令10条を問い、義理に識達し問われて疑滞なきものを通とし、全通を甲、8以上通を乙とし、位階を与えた。明法道出身者は多く刑部(ぎょうぶ)省、弾正台(だんじょうだい)、衛門府(えもんふ)などの官人に採用され、専門知識を生かした。法律知識を有する官人への需要は多く、802年(延暦21)には明法生の定員が20人に加増されている。ただし刑獄を扱うことから上級貴族にして明法道に学ぶものは少なく、教官、学生ともに卑姓出身者で占められた。律令を習得した明法生が明法試を受けるのが令規であるが、10世紀後半になると明経得業生(とくごうしょう)ないし准得業生の宣旨(せんじ)を受けたもののみが明法試を奉ずるようになった。9世紀から11世紀にかけて讃岐(さぬき)氏や惟宗(これむね)氏から卓越した明法家が輩出したが、11世紀末になると坂上(さかのうえ)、中原両氏が明法博士家として固定し世襲となった。
[森田 悌]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
古代の大学寮の四道の一つで,法律について教授した学科。明法博士2人の教授陣と,その下で学ぶ明法得業生(とくごうしょう)2人,明法生20人からなり,令制の明法試に対応した。明法試は律から7問,令から3問出題され,全問正解の甲第と8~9問正解の乙第が及第とされ,それぞれ大初位(だいそい)上,大初位下に叙されて出仕を認められた。明法得業生が正規の受験資格者として位置づけられたことは重要である。及第者は,明法博士のほか,刑部(ぎょうぶ)省や検非違使(けびいし)などの法律の知識を必要とする官司で活躍した。また813年(弘仁4)以降は,6~7問正解の者の国博士への任用が認められるようになった。明法試を受験できなかった者についても,年挙(ねんきょ)などによる任官の道が開かれていた。
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…その子が蝦夷征討に活躍した田村麻呂(たむらまろ)で,征夷大将軍となり,武功により従三位にのぼり,さらに正三位大納言となる。田村麻呂ののちは武門氏族としての坂上氏はおとろえたが,平安時代末期に明法道(みようぼうどう)の家として再び名をあげる。すなわち定成(1088没)が坂上氏としてはじめて明法博士となり,ついで明経道の中原氏から定成の養子になったと推定される明法博士範政は,〈法家坂上一流の祖〉と称された。…
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