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慶陵 けいりょうQing-ling

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

慶陵
けいりょう
Qing-ling

中国遼朝第6代の皇帝聖宗 (在位 982~1031) の陵墓の名称。また近くにある興宗 (第7代) ,道宗 (第8代) 夫妻の陵墓を合せた3陵の総称としても使われる。内モンゴル自治区巴林左翼旗白塔子部落 (遼代の慶州) の北西方にあるワール・イン・マンハの山中にある。

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デジタル大辞泉の解説

けい‐りょう【慶陵】

中国、内モンゴル自治区ワールインマンハ山にある、遼(りょう)代の帝王陵。聖宗の永慶陵、興宗の永興陵、道宗の永福陵の三陵がある。

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百科事典マイペディアの解説

慶陵【けいりょう】

中国,内モンゴル自治区巴林左旗管内のワールインマンハにある代の陵墓の総称。1920年,ベルギー宣教師ケルビンによって発見された。聖宗の永慶陵,子・興宗の永興陵,孫・道宗の永福陵の3基があり,東陵,中陵,西陵と称されている。

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世界大百科事典 第2版の解説

けいりょう【慶陵 Qìng líng】

中国,南興安嶺の東斜面,内蒙古の巴林左旗管内のワールインマンハ(〈瓦の多い砂丘地〉の意)の地下にある遼代の3代の皇帝陵の総称。1920年宣教師によってその所在が報告され,39年に田村実造が,小林行雄らとともに一部分の発掘と精密な実測を実施し,その全貌を52,53年《慶陵》として発表した。ワールインマンハは遼代皇帝の狩猟地慶雲山に比定され,南斜面の三つの尾根にそれぞれ東陵,中陵,西陵が並んでいる。いずれも山麓に門を構え,参道を登ると前殿に至る。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

慶陵
けいりょう

中国、内モンゴル自治区バリン左翼旗内にある遼(りょう)の皇帝の陵。慶陵はもともとは遼の第6代皇帝聖宗と后妃を合葬した永慶陵の略称であったが、のちに隣接して造営された第7代の興宗の永興陵および第8代の道宗の永福陵を含めた総称となった。慶陵の所在するのは南興安嶺(こうあんれい)の一山で、現在はワール・イン・マンハ(瓦(かわら)の砂丘)とかゴルバン・トロガイなどとよばれているが、遼代には緬(めん)山、永安山とよばれ、慶陵の造営とともに慶雲山と改名された。慶陵は1920年ミュリエにより学界に紹介され、22年ベルギー人宣教師のケルビンが興宗陵を調査し、契丹(きったん)文字の哀冊(あいさく)(墓碑銘)を学界に紹介した。39年、田村実造、小林行雄らにより主として東陵の調査がなされた。慶陵は東陵、中陵、西陵とよばれる3基の陵墓からなるが、田村らの調査により東陵は聖宗、中陵は興宗、西陵は道宗の陵墓とされている。
 東陵の墓室には中央に前室、中室、後室があり、前室と中室の左右にそれぞれ円形の副室があるから、全部で7室からなっている。墓室や通廊の壁面には表面に漆食(しっくい)を塗り、その上に人物、花鳥、山水、装飾文様など華麗な壁画が描かれている。人物画は各人の個性をよくとらえた等身大肖像画で、遼代の風俗を知るうえの貴重な資料である。中室の四周には、おそらく慶雲山周辺の四季を画題とした山水画が描かれており、唐末宋(そう)初の手法を伝えた屈指の絵画資料である。慶陵からは15基の哀冊碑石が出土し、そのなかの4基には契丹文字による碑文が刻まれており、契丹文字解読の手掛りを与えるものとして学界に注目されている。[河内良弘]
『田村実造著『慶陵の壁画』(1977・同朋舎出版)』

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