中国,南興安嶺の東斜面,内蒙古の巴林左旗管内のワールインマンハ(〈瓦の多い砂丘地〉の意)の地下にある遼代の3代の皇帝陵の総称。1920年宣教師によってその所在が報告され,39年に田村実造が,小林行雄らとともに一部分の発掘と精密な実測を実施し,その全貌を52,53年《慶陵》として発表した。ワールインマンハは遼代皇帝の狩猟地慶雲山に比定され,南斜面の三つの尾根にそれぞれ東陵,中陵,西陵が並んでいる。いずれも山麓に門を構え,参道を登ると前殿に至る。前殿は正門と斜め前に脇殿をコの字形に配した正殿からなる。これより数百m後方に墳丘をもたない地下式塼築墓室がつくられている。3陵とも斜路の壙道で地下に下り,羨門から羨道,前室,前室北通廊,中室,中室北通廊,後室と南北に並び,前室,中室には両側にそれぞれ通廊を経て副室を配している。東陵と西陵は中室,後室,副室ともに平面円形で天井を半球形に築いているが,現在は水がたまっている中陵の各室は平面八角形と報告されている。聖宗(在位982-1031)の永慶陵(東陵)は後室を除く全面がしっくいで塗り固められ,そこに極彩色の壁画が描かれていた。中室を除く壙道から中室北通廊までの壁面には文武百官,男女の等身大の肖像画がきわめて写実的に描きわけられている。人物像は篦描きの下絵の上に彩色されている。中室の四壁には縦2.8m,横1.9mの大壁面に付近の風景を写生したとみられる四季山水図が描かれている。さらに各室,各通廊の天井は六角形の格子状区画内に描かれた花文や,火炎宝珠に向き合った双竜の図で装飾されている。遼代の墓を壁画で飾るのは通例であるが,さすがに皇帝陵だけあってその壁画の壮麗精緻なことはいまだに他に例がみられない。奥室は曲材を重ねて壁とし,その上に木製漆塗金箔置きのミニアチュアの斗栱(ときよう)や瓦をのせて宮室をかたどった荘厳(しようごん)がなされていた。
また聖宗とその妃,中陵の興宗(聖宗の子。在位1031-55)の妃,西陵の道宗(聖宗の孫。在位1055-1101)とその妃の漢文および契丹文の哀冊(あいさく)(皇帝の墓誌)と篆蓋(てんがい)15面が出土している。哀冊が刻まれた碑石の平面は1辺約130cmの正方形で,側面は長方形の上に台形をのせた高さ30cm前後の家形とでもいうべき形をしている。上面に銘辞を刻み,側面に四神あるいは竜文を線刻する。篆蓋は中央に墓主名を篆字で彫り,台形の斜面に十二支生肖冠の文官像と牡丹ないし竜文を刻み,側面を碑石と同じ文様で飾る。契丹文も篆字の篆蓋と楷書体の銘辞からなる。契丹文は漢文と同じ内容を契丹文字で表したと考えられるが,未解読である。
執筆者:坪井 清足
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中国、内モンゴル自治区バリン左翼旗内にある遼(りょう)の皇帝の陵。慶陵はもともとは遼の第6代皇帝聖宗と后妃を合葬した永慶陵の略称であったが、のちに隣接して造営された第7代の興宗(1016―1055、在位1031~1055)の永興陵および第8代の道宗(1032―1101、在位1055~1101)の永福陵を含めた総称となった。慶陵の所在するのは南興安嶺(こうあんれい)の一山で、現在はワール・イン・マンハ(瓦(かわら)の砂丘)とかゴルバン・トロガイなどとよばれているが、遼代には緬(めん)山、永安山とよばれ、慶陵の造営とともに慶雲山と改名された。慶陵は1920年ミュリエにより学界に紹介され、1922年ベルギー人宣教師のケルビンが興宗陵を調査し、契丹(きったん)文字の哀冊(あいさく)(墓碑銘)を学界に紹介した。1939年、田村実造(じつぞう)(1904―1999)、小林行雄(ゆきお)(1911―1989)らにより主として東陵の調査がなされた。慶陵は東陵、中陵、西陵とよばれる3基の陵墓からなるが、田村らの調査により東陵は聖宗、中陵は興宗、西陵は道宗の陵墓とされている。
東陵の墓室には中央に前室、中室、後室があり、前室と中室の左右にそれぞれ円形の副室があるから、全部で7室からなっている。墓室や通廊の壁面には表面に漆食(しっくい)を塗り、その上に人物、花鳥、山水、装飾文様など華麗な壁画が描かれている。人物画は各人の個性をよくとらえた等身大肖像画で、遼代の風俗を知るうえの貴重な資料である。中室の四周には、おそらく慶雲山周辺の四季を画題とした山水画が描かれており、唐末宋(そう)初の手法を伝えた屈指の絵画資料である。慶陵からは15基の哀冊碑石が出土し、そのなかの4基には契丹文字による碑文が刻まれており、契丹文字解読の手掛りを与えるものとして学界に注目されている。
[河内良弘]
『田村実造著『慶陵の壁画』(1977・同朋舎出版)』
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中国遼寧省巴林左旗(ばりんさき)白塔子(遼の慶州)の北西のワール・イン・マンハと呼ばれる山にある遼の聖宗(せいそう),興宗(こうそう),道宗(どうそう)と,それぞれの后妃を葬った三つの陵墓の総称で,永慶陵の略称。1920年に発見され,39年に田村実造らによって学術調査された。3陵とも同じ構造で,特に聖宗の陵墓の壁画には唐末・宋初の画風で契丹(きったん)人の等身の人物肖像,四季の山水花鳥画が描かれている。また,契丹文の4基の墓誌は契丹文字の貴重な資料である。
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