帝王陵(読み)ていおうりょう

改訂新版 世界大百科事典 「帝王陵」の意味・わかりやすい解説

帝王陵 (ていおうりょう)

強大な権力をもつ支配者である皇帝,天皇,大王,君主などを埋葬した,地上に大きな構築物をもつ墓を帝王陵という。諸王の王である大王や,大王と同等の,またはそれを上回る権力者の皇帝は,古代統一国家の形成過程のなかから出現したので,一般に帝王陵は,古代帝国の象徴と考えられている。しかし,いわゆる古代以後にも支配者のための巨大な墓は建設されており,また世界史的にみると〈古代〉そのものの概念があいまいであるから,むしろ古代や中世に限らず,近世,近代をもあわせ支配者の権威を示すために構築された大きな墓をも含めて帝王陵と呼ぶ方が実態に即しているばかりでなく,帝王陵のもつ意義をはっきりさせるのにも役立つ。それでは,どれだけの規模をもつ大きな墓を帝王陵として選別することができるだろうか。一般に帝王陵として話題にされる機会が多いにもかかわらず,大ピラミッドなどの代表的な例を除くと,帝王陵そのものの調査がほとんど行われていないために,むずかしい問題である。その墓が建設された時代の前後の時代に,どのような規模の墓が造営されたかということと関連し,統一国家にもさまざまな段階があって,領域の広さなどを画一的に決めることはほとんど不可能だからである。この点も含めて,帝王陵の研究は大きく遅れている。

帝王陵の名に値する墓として,あるいは大規模な葬送儀礼が行われたことを示す墓として,かつて問題にされた墓を列挙してみよう。応神,仁徳に代表される古代天皇陵,殷の大墓,秦漢帝国以降の帝陵,朝鮮三国時代から新羅統一時代にいたる陵墓,西アジアのウルの王墓とウル第3王朝の陵,ペルシア帝国の王陵,ハリカルナッソスのマウソレウム,エジプトのマスタバやピラミッドなどが著名である。これらの墓は2種類に大別することができる。第1はピラミッドや秦漢帝陵のように,地上に巨大な構築物をもつ墓であり,第2はウルの王墓や殷の大墓のように,多くの殉葬者を伴う墓でありながら,地上にほとんど構築物が残っていないもの,あるいはあっても規模がそれほど大きくないものである。マスタバは地上にかなり大きな構築物をもっているが,ピラミッドの成立との関係から第2の部類に入れるのが妥当である。

 巨大な帝王陵の成立過程が比較的よくわかっているのはエジプトである。エジプトの先王朝時代の墓は小さな墓壙を掘り,屈葬の姿勢の遺骸を,飲食物を入れた容器や土偶などとともに埋めた簡単なもので,副葬品に多少の差はあるけれども,同じような墓が群集して墓地を形成している。先王朝末期には日乾煉瓦を使用した墓室が現れるが,簡単な多くの墓と決定的に差がでてくるのは第1王朝時代になってからである。第1王朝時代に小墓の群集する墓地に現れたマスタバは,日乾煉瓦を長辺30~40m,短辺15~20mの中空の長方形,復原の高さ10mに積み,中央の地下に埋葬所をつくった墓で,まわりに殉葬者用の小さなピット(土坑)をめぐらした例もある。このようなマスタバは各地の王と王妃の墓である。第2王朝時代には正面の一部に礼拝所を設け,これを飛躍的に大きくし葬祭殿を備えたのが最初のピラミッド,すなわち第3王朝のジェセル王を葬った階段式ピラミッドである。葬祭殿に被葬者ジェセルの大きな倚座像を据えた礼拝設備をそなえ,さらにマスタバ形建物,三十年祭儀式殿を付設して,周囲1.6km以上の周壁をめぐらして聖域を区画し,一般の共同墓地からは完全に隔離されたものとなって,諸王の王である大王にふさわしい墓の形式が成立した。これをさらに発展させたのが第4王朝のクフ王の大ピラミッドであって,まわりには高官たちを葬ったマスタバが列をなして並んでいる。そしてクフ王の後継者たちは〈太陽の息子〉を称号に加え,第5王朝以後それが継承された。

 エジプトにおけるピラミッドの成立過程をモデルとして,メソポタミアや中国をみると,支配者の埋葬形式の変遷と古代統一国家の形成過程とを対応させることができる。支配者は古代統一国家の成立に伴って,諸王の王として大王または皇帝となり,それと関連して神格化が行われた。この神格化の動きが,共同墓地のなかにあって特異な構造をもつにすぎなかった墓の形式から,地上に壮大な構築物をもつ陵墓を,一般の墓から隔離した場所につくるという形に具体化した。これが帝王陵であり,前段階は各地の王を葬った王墓として区別すると,帝王陵の性格が明らかになる。あらためてその特徴をあげると,地上の構築物が壮大で礼拝設備をもち,墓室の構造が複雑で副葬品も多く,また豪華なものを含み,殉葬を伴う場合があり,被葬者の生前から造営をはじめた寿陵であることが多い。巨大な帝王陵の造営には,莫大な労働力と高度な土木技術や建築技術を必要とする。古代統一国家の成立が,経済的にも,技術的な面からも,これを可能にしたことは容易に推測することができるが,ピラミッドの建設が,ヘロドトスの記録しているように強制的なものであったかどうかは慎重な検討を要する問題である。すなわち彼は,最大のクフ王のピラミッドについて〈まずすべての神殿を閉鎖し,国民が生贄を捧げることを禁じ,つづいてはエジプト全国民を強制的に自分のために働かさせ〉て,〈国民を世にも悲惨な状態に陥れた〉という祭司たちの話を記し,続けて石を切り出して運搬するのに,つねに10万人が3ヵ月交代で働き,石材運搬の道路を建設するのに10年,同時に行われた墓室の建築に10年,ピラミッドそのものの造営には20年を費したという伝承を記録している(《歴史》松平千秋訳)。

 秦の始皇帝が即位してまもなく,天下の刑徒70余万人を動員して陵をつくりはじめたというのも,この種の帝王陵の建造が,強制労働なしでは成立しないものであることを伝えようと意図したものであろうが,これらの記録を単純に信用すべきではなかろう。むしろ多少の強制は当然あったとしても,その当時,帝王陵の築造に民衆を熱中させる何ものかがあったのであり,その実態を,帝王陵の研究を通じて解明すべきではなかろうか。世界の各地において,最初の統一国家が崩壊したのちも,強力な統一国家が再生するごとに,ほとんど古王国のピラミッドや秦漢帝陵ほどではないにしても,支配者のための大きな陵が繰り返し建設されたのであった。それらは模倣であるから,規模は縮小しているが,現在でも帝王陵の思想は生きている。

世界最古の帝王陵はサッカラにある第3王朝のジェセル王の階段式ピラミッドで,このピラミッドは伝統的な王墓の形式であるマスタバを核とし,5回にわたる増築をへて,底面125m×109m,高さ62m,6段の方錐状につくられ葬祭殿をもつ。付属建造物を伴って,南北545m,東西280m,高さ10mの周壁で墓域を区画してある。これ以後,種々の改良を加えて,第4王朝には四角錐の〈真のピラミッド〉が完成した。そして周壁のなかに葬祭殿と高官のマスタバを配置し,儀式用の船が通れるように,ナイル河畔の流域祭殿と葬祭殿を廊下で結んで,ピラミッド複合体が完成した。その頂点にあるのがギーザの〈三大ピラミッド〉である。以後規模を縮小しながらも,ピラミッドは第5,6王朝と引き続いて造営されたが,第6王朝のピラミッド4基はいずれも1辺二十数mの小さいもので,これらが帝王陵の名に値するか否かは問題である。ピラミッドは第11,12王朝の中王国時代にも復活したが,最大のもので1辺33mであった。

統一国家であるウル第3王朝の創始者ウルナンムは,神を称し,住宅または宮殿建築と同じプランの大きな建造物に葬られた。35m×27mの長方形で,壁の厚さが3mもあり,崩れていてもとの高さはわからないが,中央玄関の正面に祭壇を,地下に2墓室を設けてある。小規模な同じプランの建物が,王位の継承者であるドゥンギとブルシンのために,東と西に付加されて全長が67mになった。この帝王陵の成立前史には,初期王朝時代の都市国家ウルの王と王妃を埋葬した有名な王墓群があり,王墓の系譜はウル1847号墓に引き継がれ,テルローラガシュ)のウルニンギルスとウグメの地下墓などが認められる。住宅または宮殿下に埋葬所を設ける墓の形式は,東のエラム王国の都であったチョガ・ザンビルでも発見されている。一方,アッシリアは強大な世界帝国を建設したが,アッシュールにある古い宮殿を利用して地下に王を埋葬している。ペルシア帝国のキュロス2世は,切石積みで7層の基壇をもつ墓室を築いて陵をつくったが,この形式の由来はわからない。なおイスラム世界でも,その本来の教えに反して各地で大きな廟墓や塔墓が建設された。とくにカイロのマムルーク朝廟墓と,サマルカンドのティムール朝廟墓が建築的に有名であるが,この世界で帝王陵に類するものを識別できるかどうか不明である。

支配者のために大きな墓をつくる風習は,新石器時代末から青銅器時代のヨーロッパに流行した。鉄器時代のエトルリア人も大円墳を築造したが,これらはいずれも各地の首長あるいは王たちの墓であった。一都市の王の墓にすぎないけれども,帝王陵を問題にするとき忘れてはならない墓がある。アナトリア西海岸カリア地方の都市ハリカルナッソスにあるマウソレウムがそれで,生前から崇拝されていたカリア王マウソロスが生存中に造営を始め,前35年の王の死後,王妃が完成した36m×27mの長方形プランをもつ切石積みの建築で,高さが43mあったという。世界の七不思議の一つに数えられた建築であり,大きな陵墓を一般にマウソレウムと呼ぶのはこれに由来する。いずれの系譜に属するかわからないが,高い塔形の墓が前1世紀ころから地中海世界に流行した。特異な墓としてティグリス川上流のニムルド・ダグに,ギリシア風の教育をうけたコンマゲネアンティオコス1世(在位,前69-前34)の盛土による壮大な墓があり,裾の基壇に諸神の石彫と並んで,生前から神格化されていた被葬者の彫像がある。また中央アジア,ウズベク共和国ホレズム地方のコイ・クリルガン・カラには,直径約90m,日乾煉瓦造の前4~前2世紀と推定される円形建物があって,廟墓ではないかと考えられているが,これも系譜は明らかでない。

ローマに元首政を成立させたアウグストゥスは,生前から円筒形陵墓の造営を始め,完成されたときの規模は直径78m,高さ45mあり,墓の頂上にはアウグストゥスの彫像が据えられていた。この陵には彼の後継者のうち5人の皇帝が追葬された。

 ハドリアヌス帝陵も,アウグストゥス帝陵を模倣して生前から建設が始められ,基底部の直径64mの円筒形3段築成で上部を縮小してあった。そしてこの陵に追葬された次の皇帝アントニヌス・ピウスが直径89m,高さ15mの周壁を加えている。この陵にも後継者の追葬が行われ,カラカラ帝が追葬の最後の皇帝であったと記録されている。帝位にある間,自己の権威の聖性と超自然性を強調したディオクレティアヌス帝は,305年に退位してサロナに隠棲し,ここに帝陵が営まれた。この伝統はラベンナにある東ゴート族のテオドリック王(526没)の墓にも認められる。

殷の王墓は,遺骸を地下に複雑な構造で埋葬しているが,地上には大きな目だつ構築物をもっていない。安陽小屯で1976年発掘された婦好墓では,地上に建物跡が確認されたので,殷王墓にもこの種の建物が存在したものと推測することができるが,その規模は決して大きなものではない。西周と春秋時代の大墓も同様であるが,戦国時代には河北省平山県の中山王墓や河南省固囲村輝県大墓(輝県古墓群)のように,方形の台を築き祠堂を建てて被葬者を祀る形式が生まれ,この土台が著しく巨大化して秦の始皇陵や漢の帝王陵へと発展していった。始皇陵は東西345m,南北350m,高さ43mの二段築成の方墳で,二重の周壁がある。外壁が東西974m,南北2173mの広範囲を区画しているが,始皇帝の埋葬に伴う兵馬俑坑が東外壁のさらに東1.5kmから最近発見され,始皇陵の造営が,従来考えられていたよりもはるかに大規模なものであることがわかった。前漢の帝王陵の規模は,始皇陵ほどではないけれども,墳丘上に礼拝殿をつくり,まわりに近親者や高官の陪冢(ばいちよう)を築いて,石人石獣を陵前に配列した。エジプトの大ピラミッドおよびその周囲の配置と共通性がある。後漢になると石人石獣を参道の両側に並べる風習が盛んになり,後世に引き継がれたばかりでなく,漢代に確立した陵制は周辺の諸国にも少なからぬ影響を与えた。漢以後においても,帝王陵の名にふさわしい陵墓が造営されたのは唐と明であり,それぞれの時代に陵制が改変された。太宗は唐代帝王の制を〈山に依って陵を為(つく)る〉と定め,皇族から文武の高官にいたる陪葬制度をつくった。太宗の昭陵では陪葬者が167基に及んでいる。高宗と則天武后を葬った乾陵は陝西省梁山に営まれ,まわりに二重の城壁を築き,四面に門を設け,朱雀門の南に石人石獣18対が配列され,これが唐代諸帝に模倣された。明十三陵は北京市北郊の天寿山の麓にあって,永楽帝を葬った最大の長陵は,直径約250mの円墳の前に,幅約150m,長さ約340mの区画を設けて祭殿が拡大された。清は基本的には明の陵制を踏襲している。

中国吉林省集安(輯安)の将軍塚や大王陵は三国時代高句麗の王陵で,陪冢を伴い,土手で墓域を区画していて,この時代が支配体制の確立期にあったことをうかがわせる。統一新羅時代の帝王陵は,封土の裾に腰石(護石)をめぐらし,石柱,石人,石獅子,亀趺(きふ)の石碑などを備えた円墳である。この形は三国時代から発達してきた墓制に,石人石獣を配列していた唐の陵制を加えたもので,都のあった慶州以外では見られない。

墳丘そのものの規模では世界屈指の帝王陵として著名な仁徳陵は,前方後円墳で,全長486m,陪冢を従え,二重の濠をめぐらして墓域を区画していた。いくつかの天皇陵は帝王陵にふさわしい規模をもっているが,豪族のなかには,当時の天皇陵をしのぐ規模の前方後円墳を造営するものもあったから,古代の天皇陵をすべて帝王陵と呼ぶのは適切でない。また律令制国家への歩みのなかで,天皇陵が縮小するという現象もあって問題は複雑である。

統一国家の成立に伴って,またその形成過程から生まれた巨大な陵墓造営の思想は,強大な国家が誕生するたびに継承されてきた。近代国家の成立においても,それは例外ではなかった。近代国家への転換に重要な役割を果たした明治天皇は,古制にのっとって上円下方墳(伏見桃山陵)に葬られた。その規模は江戸時代の天皇および将軍よりもはるかに大きい。ナポレオンも,トルコ共和国の建設に功績のあったケマル・アタチュルクもまた毛沢東も大きな廟墓に葬られた。アタチュルクの廟墓には石人石獣さえ配列されている。
陵墓
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の帝王陵の言及

【墳墓】より

…この方式も後代に受け継がれ,唐の昭陵乾陵は,その規模をさらに拡大したものである。 帝王陵への墳丘の導入によって,高級官人や有力豪族層の墓も急速に墳丘を築くようになるが,前漢代には墳丘の高さが法律によって規制された。しかし,国家権力が相対的に弱くなる後漢代になると,地方において大きな墳丘と墓室を築くようになる。…

※「帝王陵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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