成瀬村(読み)なるせむら

日本歴史地名大系 「成瀬村」の解説

成瀬村
なるせむら

[現在地名]町田市成瀬・成瀬台なるせだい東玉川学園ひがしたまがわがくえん一―二丁目・玉川学園たまがわがくえん七―八丁目・南成瀬みなみなるせ成瀬が丘なるせがおか・東玉川学園

高ヶ坂こうがさか村の東にあり、北西本町田ほんまちだ村。「小野氏系図」では横山党の横山孝兼の子息に藍原二郎大夫孝遠、その孫に鳴瀬四郎太郎某がおり、成瀬に居住したものと思われる。従兄弟の山崎野太郎兼光らと連携して横山党勢力の南部を構成しつつ、鎌倉街道の交通網をも確保し、鎌倉にあって幕府御家人として活躍する横山時重・時広・時兼らの嫡流を補佐していた。多摩丘陵の最前線拠点であった成瀬(旧字七号地、現南成瀬)にその居館という成瀬城跡があるが、発掘調査では縄張りなどから鎌倉期の築造とするのは無理とされている。同城は恩田おんだ川の西側の標高五〇メートル余の舌状台地にあり、恩田川と鎌倉街道を見下ろす地点で、付近には城山しろやま根古屋ねごや大門だいもんなどの古称がある。城郭としての成立は戦国期とされ、二つの曲輪と二つ以上の空濠をもつ複郭式の平山城で、西側の麓に居館区域、すなわち根古屋が設定された。


成瀬村
なるせむら

[現在地名]藍住町富吉とみよし

乙瀬おとぜ村の西にあり、北と西は蛇行して東流する吉野川(現旧吉野川)に沿う狭小で平坦な村。村名は鳴瀬とも記される。慶長二年(一五九七)の分限帳に「鳴瀬」とみえ、一九六石余が置塩領。同八年徳島藩領となる。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)によれば高四〇石余、人数九人が長谷川清左衛門の知行分として与えられていた。正保国絵図では高一九八石余、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳によればこの高すべてが畠方。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高七石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二二二石余。「阿波志」によれば土田は中等、陸田二八町六反余、高二二二石余の四分の三が采地となっている。


成瀬村
なるせむら

[現在地名]武雄市橘町たちばなまち芦原あしはら鳴瀬なるせ

現武雄市の南東部、杵島きしま山の北西山麓にある。鳴瀬とも書く。

文明一四年(一四八二)一二月三日の田地居屋敷坪付注文(橘中村家文書)に「なるせ七反三丈、まへつる三丈いてのいやしき」とある。

古代の官道の「杵嶋駅」がこの村にあった可能性が強く、江戸時代の長崎街道の成瀬宿はこの村におかれ、常備の馬は五頭となっている。長崎街道は享保年間(一七一六―三六)塚崎つかざき(彼杵通)が新設されたため成瀬通(塩田通)を利用する旅人は三分の一に減ったと伝えられている。


成瀬村
なるせむら

[現在地名]谷和原村成瀬

下小目しもおめ村の東にあり、西方川通かわどおり用水、東方中通なかどおり川に至る。江戸初期には成瀬新田と称し(新編常陸国誌)、「寛文朱印留」には成瀬村とあって下総佐倉藩大給松平氏領。享保三年(一七一八)土浦藩土屋氏領(谷原下郷組)になって廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高二九九・五三七石。


成瀬村
なるせむら

[現在地名]上那賀町成瀬

府殿ふどの村の西、成瀬川の上流山間に位置する。鳴瀬村とも記す。海部かいふ郡に属し、平谷ひらだに村の枝村である。正保国絵図では「木頭之内成瀬村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳によると海部郡木頭きとう(現木頭村・上那賀町)の枝村として村名がみえる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では平谷村のうちに成瀬村がみえ高一六石余。「阿波志」では平谷村の支落に鳴瀬がある。天保郷帳では木頭村の高に、旧高旧領取調帳では平谷村の高に含まれると思われる。文化九年の平谷村棟付帳(海部郡誌)によると家数五一・人数二〇五。郡村誌では税地は田四町九反余・畑三町余・宅地七反余・山林六反、戸数三三、うち社一・堂一、人数一四六、牛二九。


成瀬村
なるせむら

[現在地名]越生町成瀬

大谷おおや村の西、越辺おつぺ川とその支流渋沢しぶさわ川に挟まれた緩丘地に立地。現東京都青梅市安楽あんらく寺蔵の大般若経巻一一六の奥書に、永和五年(一三七九)四月上旬「武州入西郡越生郷成瀬村」の住僧良察が書写したとある。田園簿では田高一六九石余・畑高三九石余、幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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