戦略戦術(読み)せんりゃくせんじゅつ(その他表記)strategy and tactics

改訂新版 世界大百科事典 「戦略戦術」の意味・わかりやすい解説

戦略・戦術 (せんりゃくせんじゅつ)
strategy and tactics

元来は軍事用語であり,戦略とは,目標または目的を効果的に達成するための大規模かつ長期的な方法で,戦争の総合的な準備,計画,運用の方法をいう。戦術とは,戦略により定められた構想に従って実際の作戦や戦闘などを効果的に行うための,戦略と比べ小規模かつ短期的な方法をいう。現在では,戦略,戦術の語は戦争以外にも広く闘争状況をもつものへ転用され,政治組織やさらには企業活動などの分野でも用いられるようになっている。

古代からの軍事戦略にも見るべきものが多いが,近代的な戦略の研究が行われたのは18世紀以降である。戦略論の創始者として著名な人物に,19世紀初期から末期にかけて,ドイツのK.P.G.クラウゼウィツ,スイス人のA.H.ジョミニ,アメリカのA.T.マハン,ドイツのH.G.vonモルトケ,A.vonシュリーフェンらがあげられる。これらの人々は,戦争が武力のみで行われるものでないことは基本理念として当然持っていたが,当時の情勢から,武力戦の戦争における地位を重視して,軍事面を主として論述している。

 18世紀のフリードリヒ大王の時代は傭兵によっていたため,財政負担が大きく,兵力の損耗を極力避けなければならなかった。そのため,戦争においては,決戦をさけ,消耗戦略によってその目的を達成することにつとめた。18世紀末のフランス革命は,〈祖国は危機に瀕せり〉の檄に呼応した志願兵の愛国心に基づいて,初めて国民軍隊を生む契機となり,そのための軍制,とりわけ徴兵制度を創り出すこととなった。ナポレオンは画期的な大軍を編成し,糧を戦場に求め,兵力の損耗よりは敵軍の徹底的な撃破を重視し,兵力を適時要点に集中して,迅速な機動と攻勢によって敵を撃破し,ついでただちに果敢な追撃をして敵を再起できないほどに撃滅する殲滅(せんめつ)戦略をとった。クラウゼウィツの戦争論は,このナポレオン戦略に影響されるところが大きかった。モルトケもまた,クラウゼウィツの殲滅戦略によって普墺戦争(1866),普仏戦争(1870-71)に完勝して,統一ドイツ帝国を成立させた。

 第1次大戦においても,シュリーフェンはモルトケの戦略を継承し,殲滅戦略をもって対仏侵攻を行ったが,兵力の分配・集中の不徹底と,火力の発達が防御側に有利に働いたために成功しなかった。初期の機動戦で勝敗が決しなかった後は,彼我ともに陣地戦に移行し,戦争は膠着して消耗戦略をとることとなった。この大戦は,これまでになく総力戦の色彩を帯び,経済力や思想戦が,戦争の帰趨に大きく影響した。

 第2次大戦は全世界的な総力戦となった。このため,政治,外交,経済,戦力の総合力で圧倒的に優勢であった連合軍が勝利を収めた。
執筆者:

国家の安全を保障し,国家政策を遂行するため,平・戦時を通じて最も効率的な方法で,人的・物的資源を総合的に準備,計画,運用する方策を国家戦略といい,これを受けて,国家の安全を確保する方法を軍事的に追求することを軍事戦略といっている。イギリスの戦略家B.リデル・ハートは,長期的な視野から,国家の目標である〈よりよき平和〉を達成するため,国家の政治的・軍事的・経済的・心理的諸力を発展させ,これを活用する方策を〈大戦略grand strategy〉と言った。またフランスの将軍ボーフルAndré Beaufre(1902-75)は,これとほぼ同じ概念を〈全体戦略〉と呼んだが,いずれも国家戦略と同義語とみてよいであろう。ただ,大戦略や全体戦略は,同盟国や連合国の統合した組織の戦略(例えばNATOの戦略)をも含むので,国家戦略よりも広い概念であるといえる。

 国家戦略には,国家の広範長期にわたる戦争計画と,これに基づく諸施策が含まれ,(1)想定敵国とその侵略様相見積り,(2)同盟国とこれとの協力関係,(3)国家の人的・物的資源を戦争目的に集中・支援させる方策(動員),(4)三軍間および軍と民との間の資源の配分の規制・調整,(5)経済,外交,通商,文化,援助等非軍事面の諸力の活用,すなわち総合的な安全保障政策,(6)戦争地域の選定と防衛戦略,等が策定される。これらには,情勢に即応して変えなくてはならない分野があるので,絶えず情勢の変化を読みとり,時宜に適した見直しを行うことが必要である。特に画期的な新しい兵器の出現は,往々にして国家戦略を基本的に変えるほどの影響を及ぼすので,これへの対応が,政治の重要な判断要素となることがある。
執筆者:

国家戦略を受けて国家の安全を確保する方法を軍事的に追求する方策を軍事戦略というが,現代では,もっと広義に用いられることが多くなった。一般的には,戦争の準備,計画,運用等,もっぱら軍事力の発動によって軍事目的を効果的に達成する術をいうが,現代では,戦争の様相が総力戦形態をとり,かつ多数国家の連合戦争となることが多いので,軍事戦略の意義も変遷し,上記の戦域レベルにおける軍事力の発動を主とした意味のほかに,平・戦両時を通じて,国家の安全を確保するための,政治,外交,治安,防衛等の総合的な施策をも軍事戦略と呼ぶようになった。特に核兵器の発達は,もし核戦争がおこれば人類が絶滅する危険を伴うため,核兵器を〈政治〉がコントロールするようになり,これにともなって軍事戦略も,後者の総合的な意味にウェートを置いて論じられることが多くなってきた。しかし,総合的な施策を意味する場合においても,軍事戦略の本来的な意義は軍事面にあるので,軍の統率や兵力運用の術など,軍事力の発動に関することがその概念の主体にあることには変りはない。

戦争は,できるだけ速やかに,しかもなるべく少ない犠牲で敵を撃滅し,勝利を収め,もって戦争の目的達成に寄与することを基本原則としていることは,今も昔も変りはない。このために,現代の戦争で最も重要なことは,緊要な時機と場所において戦力の優勢を得ることであり,これを〈集中の原則〉と呼んでいる。ここにいう戦力とは,単に部隊の大小や兵数だけを意味するものではなく,兵器,装備,補給など物質的な面までも含んでいる。特に科学技術の進んだ今日では,兵器の質において敵に勝ることが重要な要素となってきた。クラウゼウィツはその《戦争論》で,このことを〈兵数の優勢〉とし,〈戦術上でも戦略上でも,勝利の最も一般的な原理であり,最重要の要因である〉と述べている。物質戦力が戦勢を左右した例は,第2次大戦でも多くみられた。太平洋地域におけるアメリカ軍の日本軍に対する反攻は,ほとんどがその例としてあげることができるが,北アフリカにおけるエル・アラメインの戦(1942年10月23日~11月4日)は,補給力の優劣が戦闘の勝敗に決定的な影響を及ぼすようになったことを示し,連合軍反攻の大きな転換点となった。この戦闘で兵站(へいたん)線の伸び切ったドイツ軍は,アメリカから戦車など多数の物資の補給を受け,満を持したイギリス連邦軍の前に,初めて敗北したのである。

 次に重要な要素として〈奇襲の原則〉があげられる。奇襲は一般的には優勢獲得の基礎要因とされており,戦術的な場面で用いられることが多い。戦略における奇襲とは,作戦の準備を秘匿したり,欺騙,宣伝によって敵側の判断を誤らせることをいうが,最近では新しい兵器による技術奇襲が戦勢を左右する大きな要因となってきた。第1次大戦の戦車,毒ガス,第2次大戦の原子爆弾などは,その著しい例である。奇襲を成功させるためには,秘密の保持と行動の迅速性が要求されるので,C3I(指揮,統制,通信,および情報)が特に重要となってくる。C3Iにおいて敵に勝ることが奇襲の前提要件である。

 このほかにも,目的--兵力使用の目的を的確に決定する,攻勢--主動的な戦闘は結局攻勢作戦によらなくてはならない,協同--諸職種間だけでなく陸海空の協同および連合国軍との協同,経済--戦力の有効な使用,機動--迅速な戦力集中の基礎要件,警戒--相手側に奇襲させない,簡明--複雑な用兵をさける,等の原則がある。計画の融通性,的確な情報収集なども,軍事戦略に欠かせない要因である。

 精神的な要素として軍事戦略に必須のものとして,クラウゼウィツは将帥の才能,軍隊の武徳,国民的精神をあげている。

軍事戦略は,その目的や作戦の形態等によって,各種に分類して呼称されているが,これらは系統的なものではない。最も基本的なものとしてあげられるのは,作戦の形態からくる攻勢戦略守勢戦略である。〈攻勢戦略〉とは,すすんで敵に攻撃をしかける積極的な戦略で,主動の地位に立ち,戦場や戦闘の時機を選定する自由を持つ有利さがある。ドイツ軍のモルトケは,〈戦略的攻勢は目標へまっすぐ到達する途である〉と攻勢戦略第一主義を唱えた。旧日本軍もこれに影響されて,〈会戦の目的を達成する唯一の要道は攻勢にあり〉と攻勢戦略を重視した。攻勢戦略は,全般の態勢として攻勢をとることを意味し,戦場の全面で攻撃することをいうのではない。状況によっては一部の部隊で防御し,またある時機,場所においては主力が守勢に立つこともある。攻勢戦略に対応するものが〈守勢戦略〉である。守勢戦略は,一般方針としては国土を守ることにあり,〈専守防衛〉などは守勢戦略の一形態である。守勢戦略は受動的ではあるが,地形を有効に利用し,準備に時間をかけることができるので,劣勢でもって優勢な敵と戦うことができる利点がある。特に近代科学技術の活用は,防衛する側により有利に作用している。

 短期決戦を目標とする〈殲滅戦略〉は,長期持久型の〈消耗戦略〉と対比される。殲滅戦略は,彼我主力の決戦を求めることに主眼を置いて戦闘を指導し,消耗戦略は,決戦を避けて自軍を温存し,敵軍の消耗を持久的に求めるものである。毛沢東の人民戦争理論は消耗戦略の一型式である。

 〈間接(侵略)戦略〉は,通常の戦略(直接戦略といわれることがある)に対比するもので,一国が,自国の兵力を使わないで,他国に対してその敵対者(革命勢力など)を通じて行う戦闘(侵略)の方式をいい,第2次大戦後,途上国などで各地に生起した。

 核兵器が出現してからは〈抑止戦略〉の概念が生まれ,大量報復戦略,柔軟反応戦略,確実破壊戦略,相殺戦略,限定戦争戦略などが唱えられるようになった。
核戦略
執筆者:

政治闘争において政治的・軍事的主体(階級,軍隊,政党,組織)が,自己の目的・課題を追求するうえで生じる問題と,それへの対応手段を含めた,政治技術論である。国民国家体系が形成される以前の戦争は宗教上の,あるいは宮廷間の対立が原因であり,戦術論以上の軍事学はなかった。しかし,ナポレオン戦争以後,政治目的と,長期・短期の同盟関係,さらに闘争方法をめぐる広い戦略論の確立が要請されるようになった。戦略論をうちたてたクラウゼウィツが〈戦争は他の手段をもってする政治の継続である〉と述べたように,戦略は広く政治目的達成の下位手段として位置づけられ,個々の闘争戦術は政治目的や戦略に従って規定された。このように政治が軍事的戦略・戦術に優先する傾向とあいまって,他面では,政治集団が戦略・戦術論によって自己の目的と手段を弁証する傾向も生じた。特に階級闘争により社会の変化を基礎づけるマルクス主義は,戦略・戦術論的思考となじみやすかったが,なかでもレーニンは,帝国主義段階におけるプロレタリア革命を導くための歴史段階と同盟を規定した綱領と,それに基礎づけられた広義の戦術を定めた。コミンテルンにおいて,特にスターリンは,これを革命の戦略・戦術論として定式化した。

 しかし,核兵器とその運搬手段の驚異的発展に象徴される軍事的・政治的技術の合理化という現代的条件のもとで,現代社会における政治の目的と手段の関係は根本的に変化しつつある。政治の手段,技術としての軍事力の意義は著しく変化し,戦略と戦術の区別も流動化している。さらには,従来の国家・階級間の政治闘争の枠組みに拘泥しないゲリラや少数民族といった政治主体も政治闘争の舞台に台頭した。このため,戦略・戦術論は軍事学だけでなく,一般的な政治技術論としても再検討が要請されているということができる。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「戦略戦術」の意味・わかりやすい解説

戦略・戦術
せんりゃくせんじゅつ
strategy, tactics

戦争指導上の二つの方策。戦略とは、大会戦や戦争に勝利するために諸戦闘を計画・組織・遂行する方策であり、戦術とは、戦略の枠内で個々の戦闘を計画・遂行するための通則である。戦略は国家政策と密接に結び付いており、一般に政治目的に制約される。国家政策の総体を国家戦略とよび、そのうち戦争にかかわる部分を軍事戦略ということもある。また、戦略を師団ないしそれ以上の戦闘単位の作戦と関係させ、戦術をそれ以下の戦闘単位の問題とみなす分類法もある。戦略・戦術はもともと軍事用語であるが、今日では軍事以外の分野でも、なんらかの目的の実現のための計画や行動に広く応用されている(経営戦略・牛歩戦術など)。

[山崎 馨]

戦略

戦略strategyは語源的にはギリシア語の「将帥術」からきているが、それが戦術と明確に区分されて使用されるようになったのは18世紀末からである。その当時、フランス革命を契機に生まれた国民戦争は、それまでの傭兵(ようへい)主体の軍隊よりはるかに大規模な兵力で戦われたため、将帥の経験や直観に頼らない客観的な戦争指導の理論が要請されたからである。19世紀に入ると、クラウゼウィッツやジョミニの手で戦略論は集大成され、彼らの理論をもとに、今日まで議論が行われてきている。

 戦略論の第一の問題は、その原理の性格にかかわっている。戦争に不変の原理の存在を認めるか否か、ということである。ジョミニは決勝点への主力の機動と投入をその種の原理としたが、戦争を社会的・政治的な現象とみる人々は不変原理の存在に否定的である。原理ということばは使わなくとも、攻勢、機動、集中、先制、指揮統一などの戦略上の原則を教範に掲げる軍隊は多い。

 戦略論の第二の問題は、政治と軍事との関係にある。クラウゼウィッツは軍事戦略に対して政治がもつ絶対的優位性を強調し、戦略は政治目的の達成のための手段にすぎないと述べたが、戦略を軍人の専管領域だとして政治の介入を拒んだり、国家政策の全体を軍事戦略の手段にしようとする傾向(ドイツの軍人ルーデンドルフの「総力戦」)までのちに生まれている。

 19世紀の戦略はナポレオンの戦争に範をとり、円滑かつ迅速な機動で主力を決勝点に集め、歩兵・騎兵・砲兵の協力のもとで決戦を挑んで敵野戦軍を撃滅することを目標にしていた。しかし、防御火力の増大、野戦築城技術の発達、防者の交通・通信網の拡充などのため、20世紀に入ると短期的な決戦での決着は困難となり、第一次世界大戦の西部戦線では、かわって強固な陣地によった長期の消耗戦が出現している。国力全体を疲弊させる消耗戦を回避するため、第二次世界大戦で欧州諸国は、戦車や空軍を大量投入して敵陣を突破ないし迂回(うかい)する機動戦を復活させたが、ドイツやソ連が敵主力を捕捉(ほそく)・殲滅(せんめつ)する電撃的な主力決戦を重視したのに対して、むしろ敵の弱点を探し出してそれを貫徹するという間接戦略を提唱するリデル・ハートのような人もいた。また、毛沢東(もうたくとう)は中国の解放戦争を、遊撃戦から最終攻勢に至る人民持久戦略という枠組みのなかに位置づけた。

 第二次世界大戦末の核兵器の登場と、その後の核運搬手段の発展とは、戦争の様相を一新し、核戦略構想はかつてない大量破壊を考慮してたてられることになる。アメリカは、核独占期には、戦略空軍による核報復という威嚇に基づいて、ソ連の攻撃を抑止する戦略をつくったが、朝鮮戦争などでの核威嚇の不機能、核独占の崩壊、ソ連戦略ミサイルの性能向上などから、やがて、通常戦に対する非核兵力の強化、核戦争における第二撃能力の確保を目ざすようになった。これらはありうる攻撃を事前の威嚇で制止する意味で、抑止戦略とよばれる。その後、アメリカの戦略は、地域紛争の非核的な処理、核攻撃による敵中枢部の確実な破壊、自国民や戦略兵器の生き残る確率の増大などを求めてさらに展開され、レーガン大統領が1983年に発表したSDI(戦略防衛構想)では、宇宙空間の大々的な利用さえも戦略に組み入れられるようになった(SDIは93年に破棄)。ソ連もまた、戦略核攻撃を基軸として全縦深を一挙に制圧するという戦略をたて、米ソの間でのたび重なる戦略兵器制限交渉や、核戦争に反対する国際世論にもかかわらず、核戦略は最新の科学技術の成果を取り入れて高度化されてきた。1991年末のソ連崩壊後、米ソ対立という冷戦は終結したが、ソ連の戦略核はロシアに受け継がれた。そしてロシアも、核戦力の維持による米ロの戦略的均衡を保持している。

 西欧諸国は、1949年にアメリカとともにNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)を結成し、アメリカの核の傘のもとで地域戦略をつくって、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構(1955結成)諸国と対置していたが、アメリカ戦略の変化に伴って核抑止が有効に機能しうるかどうかをめぐって論争がおき、フランスはNATOの軍事機構を脱退して独自の核戦力を保持する戦略を採用するに至った。戦後の非ヨーロッパ地域での戦争は、民族解放戦争での持久戦略を除けば、中東戦争などにみられるように、戦争目的を敵の完全な打倒にかならずしも置かない制限戦争的な戦略によることが多い。核拡散に伴って、そうした戦争でも核兵器が使用される危険が生じている。中国は核兵器を所有しているが、人民戦争を重視している。ただ文化大革命後は、人民解放軍の技術的・組織的近代化の過程で、核戦略の比重を増加させていて、アメリカ、ロシアに次ぐ核弾道ミサイルを所有している。

[山崎 馨]

戦術

戦術tacticsとは個々の戦闘の指導規則であり、戦略と同様、技術条件の変化に大きく影響されるが、一般には攻撃と防御、遭遇戦と陣地戦、物質的要素と精神的要素などの定型的な形式をもっている。近代の戦術は銃砲の登場とともに始まる。小銃は重装甲の騎士軍を無力化し、火砲の威力は中世城砦(じょうさい)を容易に破壊しえた。このため、砲兵に援護された数列の銃兵横隊による連続した一斉射撃と騎兵の突撃力が野戦の帰趨(きすう)を決定するようになった。他方、17世紀になると火砲の攻撃に耐えうる近代的要塞(ようさい)が出現し、要塞をめぐる攻守戦は長期化するようになった。18世紀末までの軍隊は傭兵を主体にしており、彼らの逃亡を防ぐ目的も横隊戦術にはあった。兵站(へいたん)と道路に制約された緩慢な行進のあと、近接距離で横隊どうしが射ち合う戦闘では、勝者、敗者ともに多数の死傷者が出た。

 産業革命の進展とともに銃砲の発射速度や精度も増し、横隊はしだいに散開隊形に変わる。フランス革命は国民徴兵によって大軍隊をつくるとともに、行進を遅くしていた火砲の機動力や兵站負担を軽減した。軍隊は何列もの縦隊で急速に行進し、戦闘にあたっては散開して銃砲弾を決勝点に集中し、動揺する敵陣に白兵突撃を敢行するとともに、騎兵や予備隊による追撃で戦果を拡充した。19世紀中葉以降、銃砲の後装化や機関銃の登場で、より散開的な隊形がとられると同時に、射撃力や突撃力の不足を補うため小部隊単位での戦闘が重視される。鉄道や道路網の整備、通信技術の進歩は兵力の分散・機動・集中や統一指揮をさらに容易にし、将校教育の体系化などと相まって、戦術上の柔軟性がより増加した。他方、火力増加、塹壕(ざんごう)・鉄条網の利用は防御力をも強化し、第一次世界大戦では、野戦での短期決戦ではなく、綿密に組織された塹壕網と、拠点火力に対する大量砲撃と何波かに分かれた人海戦術との衝突が常態化した。毒ガスや戦車は陣地突破用の新兵器として登場している。第一次世界大戦後、マジノ線による固定防御を重んじたフランスを除く各国陸軍は、戦闘を再機動化させるのに意を砕き、戦車、対地支援航空機、歩兵・砲兵の車載化などを組み合わせた機動戦が第二次世界大戦では復活している。

 空からの対地攻撃の効果は大きく、このため戦場の制空権の確保や対空戦闘が重要となった。第二次世界大戦後、対戦車ミサイルや戦闘用ヘリの登場で戦車の活動はかなりの制限を受けるようになった。しかし、制空権を得たうえで火力支援を受けた機甲部隊の戦闘は今日でも戦闘の中軸をなしている。歩兵も装甲兵員輸送車で移動・戦闘を行うようになっており、在来兵器の近代化や宇宙衛星までも含む電子兵器の導入のため、戦術はかつてにもまして立体的で流動的になっている。戦術核兵器がその傾向をさらに促進している。

 18世紀には、軽騎兵や不正規兵による敵の側面や小部隊、連絡線、兵站基地などへの攻撃は小戦とよばれたが、これはナポレオンの侵攻に対してスペインやロシアで多用され、ゲリラ(パルチザン)戦術と通称されるようになった。20世紀の民族解放戦争の多くは、まずこうしたゲリラ的な戦闘による敵の長期にわたる翻弄(ほんろう)・消耗で開始されている。反ゲリラ側も対ゲリラ特殊部隊や武装ヘリコプターの利用、戦略村の設立といった対ゲリラ戦術をつくりあげている。

 海軍は帆船時代から第一次世界大戦まで、長らく主力艦隊どうしの砲撃による決戦や敵の港湾封鎖を主要な課題としてきた。索敵・展開・戦闘・追撃という戦闘パターンが一般的であった。しかし、第一次世界大戦で潜水艦が本格的に使われると、主力艦の援護や対潜行動が比重を増し、また潜水艦による通商破壊戦とそれへの対抗策が海軍戦略の重要な1項目となった。だが、長距離砲と分厚い装甲をもった主力艦と、それを援護する補助艦を基礎とする戦略は、航空部隊の海戦への投入によって無効となり、第二次世界大戦では空母と潜水艦とが海戦の主役を占めている。他の艦船も対空・対潜戦闘を基本とするようになり、船団護衛や上陸支援が主任務となった。第二次世界大戦後も、空母と潜水艦の重要性は変わっていないが、非核・核ミサイルを搭載した水上艦艇の多面的な役割が増加しつつある。

 空軍は第一次世界大戦期に登場し、当初は偵察・空中戦・対地支援が主任務であったが、やがてそれに敵の陣地や都市への爆撃が加わった。航空攻撃の威力は第二次世界大戦では地上・海上の戦闘にとって決定的な意義をもつようになり、また敵の都市や重要施設を集中的に攻撃して相手の継戦能力を減耗させる戦略爆撃も同様である。戦略空軍の役割は核兵器の登場でさらに拡大したが、その後、戦略ミサイルが戦略爆撃機の地位を大きく奪い取った。ロケットやジェット機の登場は、戦闘機と軽爆撃機の区分を廃止させ、空中戦にも対地・対艦攻撃にも使える戦闘爆撃機が戦術面での中心になっている。また、レーダーや電子装置の発展は、空軍戦術をはるかに複雑なものにした。現在では空軍の任務は、主として偵察、輸送、対地支援にあるが、そのためにも近年目覚ましい発達を遂げている対空ミサイルの制圧が必要条件となっている。レーザー兵器などを装備した軍事衛星、核ミサイルを搭載した原子力潜水艦、長距離・中距離を飛ぶ各種ミサイル、対空・対戦車ミサイル、戦闘用ヘリコプター、精密な電子兵器等の利用によって、戦略・戦術は陸・海・空三軍ごとの区別をしだいに離れ、より統合された運用へと向かうことになろう。

[山崎 馨]

『E・M・アール編著、山田積昭他訳『新戦略の創始者』全2巻(1979・原書房)』『金子常規著『兵器と戦術の世界史』(1979・原書房)』『小山弘健著『軍事思想の研究』(1984・新泉社)』

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