房川渡(読み)ぼうせんのわたし

日本歴史地名大系 「房川渡」の解説

房川渡
ぼうせんのわたし

日光道中栗橋宿中田なかだ宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫じようくん寺が法華ほつけ坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光えんこう寺が玉泉ぎよくせん坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川ふさがわ渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。天正一八年(一五九〇)伊奈忠次が市川・松戸とともに房川などの関を守るとあり、また慶長五年(一六〇〇)の会津上杉氏への出陣に際しても忠次は房川渡を守るように徳川家康から命ぜられている(寛政重修諸家譜)。元和二年(一六一六)の掟書(御触書寛保集成)に古河・栗橋などとともにみえ、関東河川の定船場一六のうちに定められている。房川渡は古くは渡良瀬わたらせ川通りの渡河点で、しん川通りが利根川の主流となって以後、利根川の渡河点になったとみられる(→日光道中

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改訂新版 世界大百科事典 「房川渡」の意味・わかりやすい解説

房川渡 (ぼうせんのわたし)

日光道中,栗橋(現埼玉県久喜市,旧栗橋町)と中田(現,古河市)の間の利根川を房川といい,この渡しを房川渡と称した。川幅214間(約387m)。栗橋には御用船武士御用物無賃,一般旅人は7文。以下船賃は1842年(天保13)の規定による)が2艘,茶船(1人16文,荷物1駄31文)が5艘(中田にも5艘),馬船(1疋13文)が2艘備えられ,往来の人馬を輸送した。川水の深さは常水で9尺(約2.7m)で,1丈2,3尺になると船止めとなった。また将軍日光社参時には船橋が架せられたが,その船数は53艘を数えたという。1885年大宮・宇都宮間に日本鉄道(現,東北本線)が開通したが,翌86年房川の鉄橋が竣工するまで鉄道の客は船渡しで中田まで運ばれた。
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百科事典マイペディア 「房川渡」の意味・わかりやすい解説

房川渡【ぼうせんのわたし】

日光道中の栗橋(くりはし)宿(現埼玉県久喜市)と中田(なかだ)宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡しで,この間の利根川を房川と称した。常水では川幅約40間,川丈9尺ほどで,川丈が1丈2,3尺になると船止めとなった。栗橋宿には御用船2艘・茶船5艘・馬船2艘が備えられていた。将軍の日光社参の際には臨時に船橋が架けられた。
→関連項目日光社参

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