呉派(読み)ゴハ(英語表記)Wú pài

デジタル大辞泉 「呉派」の意味・読み・例文・類語

ご‐は【呉派】

中国、明代中期以降の画派沈周しんしゅうを祖とし、文徴明董其昌とうきしょうなど、南宗画復活・展開した文人画家たちをいう。→浙派せっぱ

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精選版 日本国語大辞典 「呉派」の意味・読み・例文・類語

ご‐は【呉派】

  1. 〘 名詞 〙 中国の学問・芸術で江蘇(呉)地方の出身者を中心とする派の呼称
  2. (イ) 清朝考証学派の一派恵棟を祖とし、漢代訓詁(くんこ)の学の研究を主としたもの。主な学者に、王鳴盛、銭大昕(だいきん)、戴震、江藩らがある。
  3. (ロ) 明代の南宗画の一派。浙派(せっぱ)に対する。沈周を祖とし、主な画家に文徴明、文伯仁、文彭陳淳、陸治、銭穀董其昌らがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「呉派」の意味・わかりやすい解説

呉派 (ごは)
Wú pài

中国の明代後半,江蘇省蘇州(呉)に栄えた文人画家による画派の名。明代前半に栄えた職業画工による浙派に対する語。沈周(しんしゆう)が元末四大家の画風を復興したことに始まり,文徴明とその周辺画家により様式的完成に導かれた。文徴明の親族や弟子たちの活動は16世紀後半に及び,呉派の全盛時代を築いた。これらの画家には,文伯仁,文彭,文嘉,陳淳,陸治,銭穀,朱朗,居節らがいる。その後,董其昌は南北宗論,文人画論を提唱し,呉派絵画の理論づけと擁護に努め,またみずから新しい絵画様式を打ち立て,後世画壇に決定的な影響を与えた。これより呉派の主流は蘇州を離れて松江派,華亭派雲間派,姑熟派などに分かれ,地域的にも,また画家の身分のうえでも拡散の傾向を示し,明末・清初の個性的画家たち,あるいは清初の四王呉惲(しおうごうん)へと継承発展されていった。
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呉派 (ごは)
Wú pài

中国の清代に,江蘇省蘇州を中心に多くの学者が輩出した。彼らを蘇州の古名にちなんで呉派という。大きくは,経学,特に小学に長じている浙西学派に含まれる。漢代経学者の説,特に鄭玄(じようげん),許慎の解釈を固く尊崇し,宋学をきびしく排斥し,音韻訓詁に長じていた。恵周惕・恵士奇の父子に始まり,孫の恵棟によって基礎が確立し,さらに江南の江声,余粛客,江藩ら,江北の阮元,汪中らに受けつがれた。
皖派
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百科事典マイペディア 「呉派」の意味・わかりやすい解説

呉派【ごは】

中国,明代後半の画壇で主流を占めた南宗画派。明代の初め北宗画浙派(せっぱ)に圧倒されていた南宗画は15世紀後半より沈周文徴明らを中心に復興し,彼らの多くが呉(江蘇省)出身であったため浙派に対して呉派と名づけられた。明末には多くの分派ができたが,呉派系の画家が清代の山水画壇でも主流となった。
→関連項目呉歴藍瑛

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「呉派」の意味・わかりやすい解説

呉派
ごは

中国、明(みん)代の山水画の流派の一つ。元末の四大家の流れを復活、それを展開して画派としての様式を形成した明代の南宗画(なんしゅうが)風の画家たちをいう。呉派の呉は蘇州(そしゅう)の古名で、この地の人が多かったので浙派(せっぱ)に対し呉派とよび、作風上の呼称ともなっている。明初に呉派の祖といわれる沈周(ちんしゅう)が出て蘇州は芸苑(げいえん)の中心としてよみがえり、その門下の文徴明は、蘇州の文人画家の中心にあって30余年活躍し、呉派の基礎をつくった。文徴明の一族と門下から文伯仁(ぶんはくじん)、文彭(ぶんほう)、文嘉(ぶんか)、陳淳(ちんじゅん)、陸治、居節、銭穀、朱郎、陸師道のほか多くの文人画家を出し、呉派は隆盛を誇り、16世紀後半の蘇州画壇の主流となった。明末に松江に董其昌(とうきしょう)が出て大成し、文人画の優位と正統性を主張した「尚南貶北(しょうなんへんぼく)論」を唱導し、次代の山水画に決定的な影響を与えた。

[星山晋也]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「呉派」の意味・わかりやすい解説

呉派
ごは
Wu-pai

中国,明代の絵画における二大流派の一つ。北宗画系の浙派 (せっぱ) に対し,元末四大家の画風を踏襲した南宗画系の山水画風を主要な表現形式とした。元末四大家のうち倪 瓚 (げいさん) を除く3人が活躍の舞台の一つに呉 (蘇州) を選んだことや,呉出身の沈周 (しんしゅう) と弟子の文徴明が文人画の中心的存在となったため,この2家に連なり,それを継ぐ多くの画家たちに呉派の名を与えた。沈周,文徴明によって様式が完成,明代山水画の主流となった。以後董其昌 (とうきしょう) ,陳継儒ら著名な画家が輩出。明末に董其昌の松江派,顧正誼の華亭派,趙左の蘇松派,沈士充の雲間派,蕭雲従の姑熟派に分れるが,様式上の本質的な相違はない。

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世界大百科事典(旧版)内の呉派の言及

【漢学】より

…中国近世の儒学として程朱学,陽明学が,宋・元・明の性理の学を代表したのに対し,清代におこった考証学によって,復古的に唱道された学術の方法である。顧炎武,閻若璩(えんじやくきよ),胡渭らが先駆的業績をあげ,呉派の恵棟,江声らによって経書ほんらいの精神は漢儒の経学によって追究しうる,とする自覚が高まり,皖(かん)派の戴震,段玉裁,王念孫らによって高度の学術成果を発揮した。その学問の特色は,《十三経注疏》を主材として史書や諸子の文献にも及び,漢・唐の時代の訓詁(くんこ)を重んじ,校勘・考証の札記(ノート)と研究者間の書信による交流を積みかさねて,許学(許慎の古代文字学)・鄭(てい)学(鄭玄(じようげん)の経書注釈)の復活と応用をきわめようとした。…

【考証学】より

…乾隆・嘉慶年間(1736‐1820)がその全盛期であって,乾嘉の学ともよばれている。 考証学の学派としては,恵棟を中心とする呉派と,戴震を中心とする皖(かん)派に分かれる。呉派が漢儒の学説を墨守し復古を主張したのに対し,皖派は必ずしもそれに拘泥することなく,創造的な研究を推し進めた。…

【山水画】より

…いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って浙派と称され,後者は沈周(しんしゆう)を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため,呉派と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗(ほくしゆう),呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗(なんしゆう)とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る,南宗画の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。…

【南宗画】より

… では南宗画を唱えた意図は何であろうか。南北の系譜についていえば元以降,明・清にあってはどうかという点について董其昌,莫是竜は明言していないが,彼らの同調者あるいは後継者によれば,南宗は元の四大家ののち沈周(しんしゆう),文徴明,董其昌,清初の四王(王時敏,王鑑,王翬(おうき),王原祁(おうげんき))と続き,北宗は南宋画院の馬遠,夏珪,李唐,劉松年をうけて明の画院の戴文進にいたり,その後継者たちは浙江出身の戴文進にちなんで浙派と呼ばれ,沈周,文徴明ら蘇州(呉)出身者に代表される呉派文人画に対置される。そして浙派は呉派の側から狂態をたくましうする邪学であると非難されている。…

【明代美術】より

…ことに成祖長陵の稜恩殿は,当代を代表する建築である。
[絵画]
 明代の絵画は,山水画を中心として展開したが,その山水画は,およそ15世紀後半を境として,前後2期に分かれ,前半には浙派が,後半には呉派が流行した。浙派の名は,後にその祖と目された戴進が銭塘(浙江省杭州)の出身であったことから名づけられたものだが,初期には浙江省,福建省出身の画家達がその中心をなしていた。…

※「呉派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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