中国,宋末元初の政治家,書画家。字は子昂(すごう)。松雪道人,鷗波道人,水晶宮道人と号し,趙文敏,趙呉興,趙栄禄などとも呼ばれる。呉興(浙江省)の人。南宋の孝宗の実父趙子偁(ちようししよう)の5代の孫にあたる。父は趙与訔(ちようよぎん)。宋末・元初の書画人として有名な趙孟堅とは従兄弟の間柄になる。初め宋に仕えて地方官になったが,宋の滅亡後は家郷で閑居した。1286年(至元23),元の世祖フビライに召されて大都(いまの北京)に行き,翌年奉訓大夫,兵部郎中に任ぜられた。以来,世祖,成宗,武宗,仁宗,英宗の5朝に仕えた。宋の皇族の出身らしく,容貌も立派,学問もあり,品行もよく,書画詩文に秀でており,政治に関しても卓見をもっていたので,諸帝の信任をうけた。同知済南路総管府事として済南(山東省),行江浙など処儒学提挙として杭州(浙江省)へ出たことはあったが,多くは中央の集賢殿,翰林院で地位を与えられ,昇進して翰林学士承旨,栄禄大夫,知制誥,兼修国史となり,死後,江浙行省平章事を贈られ,魏国公に封ぜられた。
彼は書画ともによくしたが,とくに書は復古主義に終始し,王羲之の伝統を守りぬこうとした。王羲之の《蘭亭序(らんていじよ)》を臨すること無慮数百本といわれるほど錬磨を積み,遒麗整粛な書風をもって当代を風靡したばかりか,明以後の書にも,また朝鮮,日本の書にも大きな影響を与えた。作品としては,《蘭亭十三跋》のほかに,日本に作品の存在する《漢汲黯伝(かんきゆうあんでん)》《与中峯明本札》などがあり,その書技の非凡さを知ることができる。また,画における功績も書に劣らず,北宋末の李公麟の線描様式を祖述し,好んで白描画を描き,山水,竹石,人馬,花鳥のいずれにもすぐれており,黄公望,呉鎮,王蒙,倪瓚(げいさん)ら元末四大家への道をひらき,指導的な役割をつとめたとされる。その著に《松雪斎文集》がある。妻の管道昇も書画をよくしたことで有名である。
執筆者:外山 軍治
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中国、元代の官僚、書家、画家。字(あざな)は子昂(すごう)、号は松雪(しょうせつ)道人。呉興(ごこう)(浙江(せっこう)省湖州)の人。宋(そう)の皇族出身であるが、元のフビライ(世祖)に召され、以後5代の皇帝に仕えた。とくに仁宗(じんそう)の寵遇(ちょうぐう)を得て翰林学士承旨(かんりんがくししょうじ)・栄禄大夫(えいろくたいふ)になる。死後文敏(ぶんびん)と諡(おくりな)された。趙呉興、趙栄禄、趙文敏ともよばれる。書画詩文に傑出した元代随一の文人で、画は山水、花鳥、竹石、人馬すべてに優れ、青緑山水を描いて、唐・北宋画風を範とした復古主義を主張実践し、元代山水画の指導的役割を果たした。書は王羲之(おうぎし)への復帰を主張し、真行草篆(てん)の各書体のいずれにも非凡で、その書風は以後の中国をはじめ、朝鮮、日本にまで影響を与えている。遺品では画に『鵲華(じゃくか)秋色図巻』(台北、国立故宮博物院)、『江村漁楽図』(クリーブランド美術館)、書に『蘭亭帖(らんていじょう)十三跋(ばつ)』(東京国立博物館)、『与中峰明本尺牘(よちゅうほうみょうほんせきとく)』(国宝)など。文集に『松雪斎文集』がある。なお、一族には画(え)をよくする者が多く、妻の管道昇(かんどうしょう)は墨竹の名手であった。
[星山晋也]
『中田勇次郎編、外山軍治他解説『書道芸術 7 張即之 趙孟頫』(1972・中央公論社)』
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…元時代が書画の領域が復古主義の時代,工芸のそれが過渡的な時代と呼ばれるゆえんである。
[書画]
書画のジャンルに出現する復古主義は,この時代のはじめに登場する趙孟頫(ちようもうふ)によって方向づけられた。ただその性格は,書法と絵画では現れ方に微妙な相違がある。…
…南宋時代に出た呉琚,楊万里,范成大らは米芾を学んだが,結局その皮相を得たにすぎず,わずかに張即之が禅の教養を背景として機鋒の鋭い書を書いた。一方,南宋の中ごろから宮廷を中心として晋・唐に帰ろうとする傾向が現れ,これがやがて趙孟堅を経て,元の趙孟頫(ちようもうふ)(子昂)らの復古主義へと受け継がれてゆく。 元代で傑出した書家は趙孟頫である。…
…米芾(べいふつ)も古法書を深く究明して,晋人の平淡天真に書の理想を求め,それをみずから血肉化することによって,因襲的な伝統派をのり越えることができた。元代の書壇では趙孟頫(ちようもうふ)らが活躍して一般に保守的な傾向が強く,古典を学習するための参考書が多く書かれたが,宋代の清新な書論は影をひそめた。 明代になると,董其昌によって革新的な書論が唱えられた。…
…元代になると,それまで開図書人という印判職人による古印の典型を失った,芸術性の乏しい篆刻を,風雅な文人芸として位置づける動きがおこった。趙孟頫(ちようもうふ)は《印史》を著し,円潤で含蓄のある玉筯文を採用することを主張した。吾邱衍(ごきゆうえん)(1268‐1311)は,篆刻に必要な知識を35条に要約した《三十五挙》を著し,秦・漢を学ぶことが必要であり,篆書を知り,まず篆法から入らねばならないと主張した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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