中国、元代末期の画家。黄公望(こうこうぼう)、呉鎮(ごちん)、倪瓚(げいさん)とともに元末の四大家と称され、南宗画(なんしゅうが)大成者の一人。字(あざな)は叔明(叔銘)、号は黄鶴山樵(こうかくさんしょう)、別に香光居士とも号す。湖州(浙江(せっこう)省呉興県)の人で、趙孟頫(ちょうもうふ)(子昂(すごう))の外孫。初め官職についたが、兵乱にあって黄鶴山(浙江省杭州(こうしゅう)市北東)におよそ30年間隠居し、明(みん)の洪武(こうぶ)初年(1368)ごろに至り仕官し、泰安州(山東省泰安市)の知州となったが、胡維庸(こいよう)の謀反事件に巻き込まれて78歳で獄死した。
画事は初め外祖父趙子昂の影響下にあったが、のちには範を王維、董源(とうげん)、巨然(きょねん)に求めた。その画風は壮大な高遠山水で、細密な皴(しわ)を執拗(しつよう)に重ねて上昇する山岳を表し、人物や家屋の細緻(さいち)な描写を特色とする。倪瓚(げいさん)とは対照的な作風を示す王蒙の山水画は、南宗画の一典型として、後世の明清(みんしん)時代の画家に多くの影響を与えた。
[星山晋也]
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中国,元末・明初の文人画家。元末四大家の一人。字は叔明。号は香光居士,黄鶴山樵。浙江省呉興(湖州)の人。元末に黄鶴山に隠棲したといわれる。明朝に仕え,山東省泰州の知州となったが,胡惟庸の獄(1380)に連座して獄死した。趙孟頫(ちようもうふ)の外孫で,詩文,書画をよくした。とくに山水画は趙孟頫,さらに董源,巨然を学んで,倪瓚(げいさん)の蕭散体とは対照的な稠密で律動的な様式を創造し,同時代の蘇州や明・清の呉派系山水画家に大きな影響を与えた。
執筆者:湊 信幸
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1298~1385
中国元末の画家。元末の四大家の一人。南画の大成者。湖州(浙江(せっこう)省呉興県)の人。外祖父趙孟頫(ちょうもうふ)(子昂(しこう))の影響を受け,宋の董源(とうげん),巨然(きょねん)に学び,王維,李昇(りしょう)など唐宋諸家の画風を参酌して一家をなした。
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…中国,元末から明初にかけて活躍した黄公望,呉鎮,倪瓚(げいさん),王蒙の4人の文人画家。ともに董源,巨然を学び元初の趙孟頫(ちようもうふ)などの復古主義の成果をふまえ,おのおのが強い個性を反映して独自の山水画様式を樹立した。…
…彼は,中共中央に提出した長文の《文芸に関する意見》(1954)で,〈指導〉という名の党の干渉こそは文芸を窒息させるもとであるとして,文芸により広範な自由を与えよ,と主張したが,中共は毛沢東の直接指導下に,胡風を〈反革命分子〉として断罪した。ついで,反右派闘争(1957)の過程では,党の官僚主義を批判する作品を書いた若い作家の王蒙や劉賓雁などが〈右派分子〉として批判され,これ以後,党の〈指導〉を問題にすることは,事実上タブーとなった。 むろん,だからといって作家たちがまったく窒息させれられていたわけではなく,50年代末から60年代初めにかけては質的にかなり高い作品が数多く現れた。…
※「王蒙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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