石築地(読み)イシツイジ

デジタル大辞泉 「石築地」の意味・読み・例文・類語

いし‐ついじ〔‐ついぢ〕【石築地】

石造り築地石垣石塀

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精選版 日本国語大辞典 「石築地」の意味・読み・例文・類語

いし‐ついじ‥ついぢ【石築地】

  1. 〘 名詞 〙 石造りの築地(ついじ)。石塀。石垣。
    1. [初出の実例]「竹房の固めし役所の石つい地のまへに」(出典:蒙古襲来絵詞(1293頃)下)

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改訂新版 世界大百科事典 「石築地」の意味・わかりやすい解説

石築地 (いしついじ)

文永の役後,再度のモンゴル襲来に備えて,鎌倉幕府命令により博多湾沿岸一帯に築造された防塁。当石築地と称されたが,1913年中山平次郎によって〈元寇防塁(げんこうぼうるい)〉と名付けられてからはこの名称が一般に定着した。その築造は文永の役後の1276年(建治2)3月に開始され,同年8月には一応の完成をみた。以後もたびたび築造と修理が重ねられ,その全長は,福岡市東端の香椎(かしい)から西端の今津(いまづ)まで,博多湾沿いに東西20kmにもわたった。築造は九州の地頭御家人だけでなく,公領や荘園にも平均に割り当てられ,鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなった。九州各国は博多湾沿岸を地域別に分担し,香椎は豊後箱崎は薩摩,博多は筑前筑後姪浜(めいのはま)は肥前,生ノ松原(いきのまつばら)は肥後,今宿(いまじゆく)は豊前,今津は日向・大隅が石築地の築造・修理ならびに警固を担当した。築造には所領1段(約992m2)につき長さ1寸(約3cm)という基準があり,その石材としては,近辺の砂岩,花コウ岩,ペグマタイト(巨晶花コウ岩),玄武岩などが使われている。この石築地を築造・修理する課役を石築地役といい,石築地を警固する課役を異国警固番役と称した。石築地役は,守護の命令で,主として九州の御家人によって担われ,負担分の築造が完了すると,石築地役覆勘状という証明書が守護によって発行された。この石築地役は,異国警固番役とともに,御家人制に影響を与え,庶子の独立を助長するなど,惣領制の解体を促進する要因ともなった。また,時代が下ると課役の代りに銭貨で納める傾向が強まるが,鎌倉時代を通して修理は続けられ,建武政権や室町幕府が成立しても修理が行われ,室町幕府の鎮西管領(九州探題)は石築地の修理を統治業務の一つとした。1342年(興国3・康永1)5月までは修築の史料が残っている。その後,石築地はしだいに砂でおおわれて埋没し,一方では破壊が進んだ。江戸時代初期の黒田氏による福岡城築城に際しては,石築地の石が大量に使用されたといわれている。近代にはいってから,中山平次郎を中心に調査・発掘が相次いで行われ,1931年には国の史跡に指定された。しかし,その後も福岡市の都市的発展によって破壊が続いたため,68年から九州大学を中心とした総合調査が行われ,遺跡の復元・修理などの根本的な保存対策がとられるに至った。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石築地」の解説

石築地
いしついじ

1274年(文永11)の元軍襲来(文永の役)ののち,再来襲にそなえて鎌倉幕府が博多湾沿岸に築いた防塁。築造は九州の各国ごとに分担され,守護が管国御家人を指揮して,76年(建治2)頃から開始された。のちの修理も各国の分担制とされ,鎌倉幕府滅亡後も続けられて室町初期に及んだが,14世紀中葉以降は放棄され埋没。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ,現在は国史跡として残る。

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世界大百科事典(旧版)内の石築地の言及

【今津】より

…74年10月19日モンゴル軍は今津に上陸し,博多に迫った。76年(建治2)3月から再度のモンゴル襲来に備えるため博多湾沿岸の今津から香椎までの約20kmにわたって石築地(いしついじ)を構築したが,今津地区約3kmは大隅・日向両国の御家人が分担して構築された。1968年今津地区石築地の発掘調査が行われ,その一部遺構の保存工事が施された。…

【大隅国】より

…御家人は京都大番役や異国警固番役などの御家人役を守護の統率下に務めねばならなかったから領家側はその二重関係を喜ばず,紛争の原因となった。1276年(建治2)の石築地(いしついじ)役配符には割当てをうける領主名とその御家人・非御家人別が記されているが,はじめ宮方御家人であった蒲生氏や吉田氏ら神官系郡司は多く非御家人に転化している。また島津氏に代わって地頭となった北条(名越)氏は肥後氏ら代官を通じて現地の支配を強化しようとしたので,肝付氏ら在地の豪族らと激しい紛争を生んだ。…

【博多】より

…13世紀後半に2度にわたるモンゴル襲来があり,博多は戦場となった。文永の役(1274)後,再度のモンゴル襲来に備えて石築地(いしついじ)が博多湾沿岸に築造され,その景観から,博多は石城と呼ばれるようになった。また同時に,九州の御家人が博多湾岸を警備する異国警固番役が開始され,さらに永仁年間(1293‐99)鎌倉幕府の出先機関鎮西探題がここに設置されると,博多は政治都市としての性格を強く持つようになった。…

【肥前国】より

…幕府は再度のモンゴル襲来に備え,3ヵ月交替で異国警固に当たることを定めたが,肥前国は豊前国とともに4,5,6月の夏の期間であった。さらに76年(建治2)各国の分担地を定めて,博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の構築を命じているが,肥前国の分担は筑前国姪浜(めいのはま)で,その石築地役,警固役の分担地域は現在の福岡市西区姪浜町から室見川川口の間と推定されている。現存する肥前国御家人の覆勘状によれば,勤仕期間は1ヵ月あるいは半月であった。…

【モンゴル襲来】より

…同年2月すでに異国警固番役(いこくけいごばんやく)の制度が整備され,1年のうち3ヵ月ずつを九州の各国が分担して博多を守ることになった。翌76年3月ごろから博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の築造が開始された。その負担は地域別に九州の領主たちに課され,8月ごろに完成した。…

※「石築地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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