今津(読み)いまづ

精選版 日本国語大辞典 「今津」の意味・読み・例文・類語

いまづ【今津】

  1. [ 一 ] 滋賀県高島市中部、琵琶湖北西岸の地名。旧越前街道・若狭街道分岐点、湖港として発展。果樹栽培・林業の中心地。
  2. [ 二 ] 福岡市西区の地名。糸島半島の南東部、博多湾の支湾の今津湾に臨む。文永一一年(一二七四)元寇(げんこう)の役で蒙古軍が上陸、当時の防塁跡が残っている。

いまずいまづ【今津】

  1. いまづ(今津)

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日本歴史地名大系 「今津」の解説

今津
いまづ

今津湾と福岡湾の間に東方に突き出た半島部に比定される。中世は怡土いと志摩しま方の内。安元元年(一一七五)一〇月二五日の誓願寺創建縁起(誓願寺文書/福岡県史資料一〇)に「志摩県今津□□誓願寺」とみえる。承久四年(一二二二)一月六日肥前国御家人山本四郎見は、父に代わって京都大番役を勤めるため「今津」に向かっており(貞応元年一二月二三日「大宰府守護所下文案」石志文書/鎌倉遺文五)、また文永二年(一二六五)二月に炎上した筥崎宮の造営を訴えるため、同宮神人が神輿を奉じて上洛を図り、閏四月一五日暁、今津浜で乗船している(同月一六日「少弐覚恵書状案」宮寺縁事抄/鎌倉遺文一三)。同一一年一〇月、対馬・壱岐を襲ったモンゴルの船が最初に九州本土に到着したのが今津で(「八幡愚童訓」など)、当地に上陸し博多を目指した(古戦記・日蓮注画讃)。弘安四年(一二八一)六月一九日にも、モンゴルの軍勢は当地に至り再び水陸の二手に分れて博多を目指している(「鹿屋氏系図」旧記雑録/鹿児島県史料 旧記雑録前編一)。文永の役の後、今津の長浜ながはま海岸などには石築地(元寇防塁)が築かれ、建治元年(一二七五)頃から「今津後浜」に大隅・日向の異国警固番役所が置かれ、大隅国の御家人佐多定親・同信親・伊佐敷阿古次郎らが番役を勤仕した。


今津
いまづ

[現在地名]岩国市今津町三丁目・同五丁目

にしき川が錦見にしみの東方で門前もんぜん川と今津川に分れるが、その今津川左岸に計画された港の地で、武家地と城下建設後にできた町方の今津町よりなる。今津の名称は、城下建設に際して付けられたものであろう。

初め白崎しらさき八幡宮の下から長さ七町、幅一町ばかりの地を船手と称する水兵の武家屋敷地とした。小名でいえば宛の木あてのき砂原すなはら地区で、その東端に船入り(藩船の係留所)を設けた。慶安年中(一六四八―五二)に武家地中央部を町地(今津町)にし、東方の野地に新小路しんこうじ町二町三五間と、西横にしよこ町一町一五間の武家地ができた。


今津
いまづ

中世の所領単位である加茂かも内の村で、現在の今津地域に比定される。今津村ともいった。徳治元年(一三〇六)三月一四日の久尊書下写(隠岐国代考証)に「いまつ村」とみえ、また北方の「いいの山」(飯山)も記される。加茂のうちの五分一を占めるという今津村の境について、西郷の公文久尊がいかなる立場と権限に基づいて裁定を下しているのか明確でないが、今津村が早くから西郷の塩木山伐採の入会権を認められていたと考えられることとかかわりがあるのかも知れない。


今津
いまづ

今戸いまど橋場はしば石浜いしはま付近の隅田川西岸にあった津。永享一一年(一四三九)金沢称名かねさわしようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)領下総国下河辺しもこうべ赤岩あかいわ一四ヵ村(現埼玉県吉川市など)年貢米の輸送に際して「今津」の問に雑用経費が支払われており(同年三月二日「赤岩三箇村年貢米結解状」金沢文庫文書、同年三月三日「赤岩一四箇村年貢銭結解状写」東京大学史料編纂所所蔵文書)、問の存在する湊町であったことがわかる。

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改訂新版 世界大百科事典 「今津」の意味・わかりやすい解説

今津 (いまづ)

筑前国糸島郡(現,福岡県福岡市西区)の地名。福岡市の西郊,博多湾に面して位置し,さらに湾入して今津湾を形成している。大宰府の外港として博多には遣唐使をはじめ外国貿易の船が入港したが,鎌倉時代ごろまでは博多湾の入口に近い今津がこれらの船の寄港地であった。とくに日宋貿易が盛んになった平安末期以降は宋船が頻繁に着岸した。1175年(安元1)宋から帰国した栄西は今津誓願寺に滞在しており,さらに源平争乱のさなか誓願寺に下向止宿して宋からの一切経の到着を待った。また1271年(文永8)9月モンゴルの使者趙良弼が今津に到着した。74年10月19日モンゴル軍は今津に上陸し,博多に迫った。76年(建治2)3月から再度のモンゴル襲来に備えるため博多湾沿岸の今津から香椎までの約20kmにわたって石築地(いしついじ)を構築したが,今津地区約3kmは大隅・日向両国の御家人が分担して構築された。1968年今津地区石築地の発掘調査が行われ,その一部遺構の保存工事が施された。都市化により石築地が破壊されつつある中で,今津地区では最もよく残存している。
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今津(滋賀) (いまづ)

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百科事典マイペディア 「今津」の意味・わかりやすい解説

今津[町]【いまづ】

滋賀県高島郡琵琶湖北西部の旧町。中心は若狭(わかさ)街道と湖上舟運の接続点として発達した湖岸の今津で,湖西線が通じる。米作を主に,野菜・果樹栽培が行われる。洪積台地の饗庭野(あえばの)は明治中期以後の陸軍演習地で,現在は自衛隊演習場。1993年に琵琶湖がラムサール条約登録湿地となる。2005年1月高島郡マキノ町,安曇川町,高島町,新旭町,朽木村と合併し市制,高島市となる。122.74km2。1万3690人(2003)。
→関連項目九里半街道

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「今津」の意味・わかりやすい解説

今津(滋賀県)
いまづ

滋賀県西部、高島郡にあった旧町名(今津町(ちょう))。現在は高島市中部を占める地域。琵琶(びわ)湖西岸に位置する。旧今津町は1906年(明治39)町制施行。1955年(昭和30)川上、三谷の2村と合併。2005年(平成17)マキノ、安曇川(あどがわ)、高島、新旭(しんあさひ)の4町および朽木(くつき)村と合併して高島市となる。地域の東部は沖積平野で、西部は古生層の山地で占められる。中心の今津は古くからの港津で、湖西における水陸交通要衝として栄えた。1974年の現JR湖西線(こせいせん)開通で京阪神との結び付きが強くなった。国道161号、303号、367号が通じる。産業は米作が主で淡水漁業も行われる。箱館(はこだて)山にはスキー場があり、饗庭野(あえばの)には自衛隊基地がある。湖岸には今津浜水泳場があり、今津港からは竹生(ちくぶ)島めぐりの観光船が出航する。

高橋誠一

『『今津町史』全4巻(1997~2003・今津町)』


今津(大分県)
いまづ

大分県中津市東部の一地区。旧今津町。犬丸(いぬまる)川河口左岸の漁業集落が中心。JR日豊(にっぽう)本線が通じる。沖積低地や干潟干拓地に米、洪積台地にダイコンなどの野菜、ハウス栽培イチゴを産する。1870年(明治3)前後の干拓新田地先の干潟に、85.8ヘクタールの農地が国営干拓事業として1964年(昭和39)完工した。

[兼子俊一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今津」の意味・わかりやすい解説

今津
いまづ

滋賀県北西部,高島市中北部の旧町域。石田川流域にある。 1906年町制。 1955年,川上村,三谷村と合体。 2005年マキノ町,朽木村,安曇川町,高島町,新旭町の5町村と合体して高島市となった。中心地区の今津は室町時代末期から,若狭街道 (現国道 303号線) と西近江路 (現国道 161号線) の交点,琵琶湖水運の要津として発達。アユ漁も行なわれる。湖西地方の行政,教育の中心地で,竹生島観光の拠点。南部の饗庭野には自衛隊が駐屯。米作を主とし,山間部では果樹を栽培。下流域の沖積平野は早場米の産地。北方および湖岸一帯は琵琶湖国定公園に属する。

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