新信濃川(読み)しんしなのがわ

日本歴史地名大系 「新信濃川」の解説

新信濃川
しんしなのがわ

現分水町大川津おおかわづで信濃川から分流し、分水町南西部を通り、現三島さんとう寺泊てらどまり白岩しろいわ野積のづみの間で日本海へ流入する。大河津おおこうづ分水ともよばれる。延長一〇キロ、幅二八〇―七三〇メートル。

信濃川氾濫による水害から蒲原平野一帯を守るため、同川が日本海に最も近づく大川津村付近で分水路を開削し日本海へ放流する計画は、享保年間(一七一六―三六)寺泊の本間数右衛門らが幕府に請願したのが始まりとされる。しかし莫大な費用がかかることや、分水路予定地農民の反対、河川運送業者や川の水位低下を恐れる新潟港の廻船問屋の反対などで許可されず、その後幾度か請願が出されたが実現しなかった(寛政二年「信濃川分水御用留書」分水町公民館蔵など)

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改訂新版 世界大百科事典 「新信濃川」の意味・わかりやすい解説

新信濃川 (しんしなのがわ)

信濃川の分水路。新潟県燕市大川津から長岡市の旧寺泊(てらどまり)町野積海岸までで,大河津(おおこうづ)分水路ともいう。蒲原平野を信濃川の水害から救う大河津分水計画は享保年間(1716-36)以来何度かたてられたが,莫大な経費と広域にわたる利害調節が困難なため幕府は許可しなかった。1870年(明治3)明治政府によって着工されたが工事は進展せず,一揆まで起こり,75年中止となった。しかし96年の大水害を機に1909年工事は再開され,14年の歳月を費やして22年完成した。分水路の延長10km,幅280~730m,分水地点では本流へ洗堰(あらいぜき)を通じ平水量を流し,洪水時には分水路の自在堰(後に可動堰)を通じ洪水を日本海へ放流する。分水の予想最大流量は64年改定され1万1000m3/s。分水地点の平均年間流量188億m3,うち55%の約104億m3を放流する。分水によって信濃川の水位は約2mも下がり,下流6万haに及ぶ地域が水害から守られた。一方,日本海への出口である寺泊海岸へは年間平均205万m3土砂が搬送され,海岸線が前進し,すでに約300haの海浜が形成された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新信濃川」の意味・わかりやすい解説

新信濃川
しんしなのがわ

越後(えちご)平野の中央を貫流する信濃川の州頂部につくられた分水。大河津分水(おおこうづぶんすい)ともいう。燕(つばめ)市分水(ぶんすい)地区の大川津(おおかわづ)(大河津)から長岡(ながおか)市寺泊(てらどまり)地区の野積(のづみ)海岸に至る延長約10キロメートル、幅720メートル、最大流水量20万立方メートルの放流能力をもつ。大川津は信濃川本流がもっとも海岸に近よる三角州の州頂部に位置し、分水は1716年(享保1)すでに寺泊町の本間数右衛門(ほんまかずえもん)らによって計画され、その後代々実現に努めたが、弥彦(やひこ)山地と西山山地間を掘削しなければならぬ難工事で、ついに実現しなかった。幕末から明治に入っても、近郷関係農村で数度も幕府あるいは国会に請願を繰り返したが成功せず、1909年(明治42)国家事業として実現することになり、1923年(大正12)まで15か年を要してようやく完成した大工事であった。この完成によって州島の5万ヘクタールの湿田が干田と化し、沿岸住民を洪水から救い、新潟港の築港を促進した。完成記念に築堤3キロメートルと大河津分水公園一帯に植えられたサクラは、いまは花見名所になっている。閘門(こうもん)側の公園内に資料館もある。

[山崎久雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新信濃川」の意味・わかりやすい解説

新信濃川
しんしなのがわ

信濃川新潟県燕市南端にある大河津から長岡市まで掘割した分水路。大河津分水路ともいう。河口にある新潟市を洪水から守るために設けられた。全長約 10km。

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