新大仏寺(読み)しんだいぶつじ

日本歴史地名大系 「新大仏寺」の解説

新大仏寺
しんだいぶつじ

[現在地名]大山田村富永

富永とみながの東部、龍王りゆうおう岳の麓にあり、俊乗房重源の草創。山号は五宝山または御宝山、真言宗智山派。本尊阿弥陀三尊。寺境は東西四〇間、南北三〇間、当初は伊賀別所といわれた。寛文一二年(一六七二)以前の起稿と推定される「新大仏寺記」(「新大仏寺誌」所載)に「此地四境怪岩奇峰有衆山之絶嶺、山之中腹、名龍王嶽」、元禄四年―享保元年(一六九一―一七一六)間の成立の「新大仏寺来由記」(同誌所載)には「(重源)及晩年既来此地、見山岳形勝、七岫七谷孤標特起、空翠相映」と記されている地勢である。

伊賀別所の名称は南無阿弥陀仏作善集に「奉造立修復大仏并丈六仏員数 合 大仏殿七躰、浄土堂十躰、伊賀別所三躰此外石像地蔵一躰(中略)奉安置皆金色弥陀三尊来迎立像一ゝ、并観音勢至各丈六 鐘一口 湯屋一宇」とみえる。建久元年(一一九〇)源頼朝が山田郡内の平家没官領のうち、阿波あわ広瀬ひろせ山田有丸やまだありまるの杣山一帯に地頭の入部を停止し、東大寺再建に従事している宋人大工陳和卿に同杣を知行せしめた。同六年には「田畠并杣山阿波広瀬有丸以所当地利、可充用東大寺内浄土堂念仏用途料」(建仁元年七月日「記録所勘状案」東大寺文書)の宣旨が下された。翌々建久八年六月一五日の重源譲状(「大日本史料」四ノ九所収)には伊賀別所の名はまだみえないが、作善集では同所の全貌が比較的詳細に記されており、したがって同年六月以後、作善集が成立する建仁三年(一二〇三)頃、伊賀別所が創設されたと考えられている。関連史料として、当寺にはかつて重源自筆とみなされる建仁二年一〇月□九日付の願文と配役書らしいものの断片が残っていた。

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百科事典マイペディア 「新大仏寺」の意味・わかりやすい解説

新大仏寺【しんだいぶつじ】

三重県大山田(おおやまだ)村(現・伊賀市)にある真言宗智山派の寺。本尊阿弥陀三尊。俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が1203年ごろまでに草創,当初伊賀別所といった。荒廃していた旧跡に1748年陶瑩(とうえい)が勧進して大仏殿を再建。本尊の頭部には〈大仏師安阿弥〉の墨書銘があり,快慶(かいけい)作とわかる。この本尊と俊乗房像・板彫五輪塔(千体仏)・絹本着色興正菩薩像などは重要文化財

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デジタル大辞泉プラス 「新大仏寺」の解説

新大仏寺

三重県伊賀市北東部にある真言宗智山派の寺院。山号は五宝山(御宝山とも)。重源による草創と伝わる。本尊の木造阿弥陀仏坐像は頭部が快慶の作で、国の重要文化財に指定。

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事典・日本の観光資源 「新大仏寺」の解説

新大仏寺

(三重県伊賀市)
伊賀のたからもの100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新大仏寺の言及

【大山田[村]】より

…東部山林地帯では良質のスギ・ヒノキ材を産出する。富永にある新大仏寺は鎌倉期の俊乗坊重源の創建といわれ,寺宝の絹本着色興正菩薩像,板彫五重塔などは重要文化財。鳳凰寺には白鳳時代の寺院跡が残っている。…

※「新大仏寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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