新潟湊(読み)にいがたみなと

日本歴史地名大系 「新潟湊」の解説

新潟湊
にいがたみなと

信濃川河口左岸に位置し、近世越後最大の湊であった。信濃川・阿賀野川の二大河岸が河口を並べるこの一帯には、古代には公津蒲原津かんばらのつがあり、沼垂ぬつたりも湊として中世の史料にみえ、古くから栄えていたと考えられる。新潟湊の成立は蒲原・沼垂より遅れるが、戦国期には沼垂と並び立つ湊町になっていたと思われる。天文二〇年(一五五一)上杉謙信が大串某を「三ケ津横目代官」に任じたが(藤巻文書)、この三ヶ津には新潟も含まれていたとみられる。

天正六年(一五七八)謙信没後まもない三月二八日付の神余親綱書状(吉江文書)には「新かた津」のことがみえる。御館の乱は上杉景勝の勝利に帰したが、その論功行賞を不満とした新発田重家は、同九年新潟津の沖の口運上を横領(六月一日「竹俣慶綱書状」上杉家文書)、新潟を占拠した。景勝・重家ともに川中の島に砦を構え、攻防は同一四年まで続く。越後の覇権を握るうえで、新潟津は交通・軍事・経済上重要な拠点となっていた。文禄三年(一五九四)豊臣秀吉の伏見築城にあたっては、新潟は物資の集積港として中央の動向とも結びついた流通の拠点となる。慶長二年(一五九七)の秋田実季材木入用帳(秋田家文書)によると、「伏見御作事之板」の秋田(土崎湊)から敦賀つるが(現福井県敦賀市)への搬送に、越後新潟の二郎右衛門が携わっている。またこの頃新潟石井彦五郎の船が松前と往来しており(新潟市史)、活動範囲の広さがうかがわれる。

元和二年(一六一六)新潟の領主となった堀直寄(長岡藩)は、町と湊の繁栄をはかり、九種の課税を免じたが(「新潟諸役用捨之覚」新潟町会所文書)、出入りする船舶への課税である沖の口船役を免除した意義は大きかった。直寄に代わって入封した牧野氏も町勢の発展をはかる。折しも寛永一〇年(一六三三)の洪水で阿賀野川が信濃川と合し、河口が広がるとともに水深も増し、日本海側随一の良港となった。この当時の、能登名舟組からの新潟送り塩高船積帳(上梶太郎左衛門氏蔵)や、新潟廻船問屋小川屋と敦賀の美濃屋との交易の積荷証文(橋詰久幸氏蔵)などが残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新潟湊の言及

【新潟[市]】より

…市域は信濃川および阿賀野川河口両岸の砂丘と三角州上に広がる。信濃川河口西岸に発達した旧市街地は,近世西廻海運の寄航地となり,越後米の移出港として栄えた新潟湊が起源をなす。1868年(明治1),当時日本海岸唯一の開港場となり,70年県庁所在地となった。…

【沼垂】より

…近世になると新発田藩,沢海藩,村上藩の年貢米集積港となり諸国廻船が訪れ繁栄したが,1633年(寛永10)阿賀野川が信濃川に合流したため居所を失い,3度の移転を経て84年(貞享1)長嶺新田の地に移る。このため港としての機能は低下,新潟湊に繁栄を奪われ,以後,新発田藩年貢米荷扱いに依存する小港町として維新を迎えた。1814年(文化11)710軒,うち本家122軒。…

※「新潟湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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