新野村
にいのむら
[現在地名]阿南町新野
三河との境にある標高八〇〇メートルの新野盆地に立地。村を遠州往還が通り、新野峠(一〇六〇メートル)を越えて三河に通じる。北は帯川村・日吉村、東は向方村(現天龍村)、南は三河国北設楽郡、西は売木村に接する。
応永一九年(一四一二)の二善寺の木造棟札に「大日本国信濃国伊那郡伊賀良
奥新野村円通山二善禅寺」とあり、これが村名の初見。
下伊那には珍しく「千石平」とよばれる平坦な盆地で、中世は関氏の本拠が置かれた。「信州伊奈郡郷村鑑」に
<資料は省略されています>
とある。天文一三年(一五四四)関氏が下条氏に滅ぼされ下条領となり、のち菅沼氏・毛利氏・小笠原氏・幕府領・脇坂氏・幕府領と支配の変遷を経て、天和元年(一六八一)より美濃高須藩領となり、明治に至る(長野県町村誌)。
新野村
にいのむら
[現在地名]太田市新野
脇屋村の東にあり、東は鳥山村、南は由良村、北は寺井村、東方を蛇川が南流する。集落は周辺耕地よりわずかに高い台地上に立地する。鎌倉・室町期には二子塚(二児墓)とよばれ、その名は同郷内にある前方後円墳に由来していた。墳丘を背にして、新田岩松氏の氏寺東光寺(墓地は墳上)が建っている。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「ふたこつかの郷 田四町二反四十たい 畠二丁六反廿たい 在家三う」とみえ、建保三年(一二一五)三月二二日の将軍家政所下文写(同文書)によると、「二児墓郷」以下一二郷が新田義兼後家尼から孫の岩松時兼に譲られている。以後新田岩松家に相伝され、建武元年(一三三四)一二月二一日に至って、「ふたこつかのかう上下」が尼妙蓮(土用王御前)から岩松直国に伝領された(「尼妙蓮譲状写」同文書)。
新野村
にいのむら
[現在地名]大河内町新野
比延村の南、市川の右岸に位置する。新埜とも記される(旧高旧領取調帳)。中世には新野庄とよばれた。慶長二年(一五九七)三月一一日の水利年貢状(新野区有文書)によると、地内小柴の堰料を美佐村・沢村(現市川町)から上月源介に納めることとされている。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は寺前村と同じ。寛永一五年(一六三八)野村(高一三九石余)が分村した(「高付」新野区有文書)。正保郷帳では田方五九二石余・畑方六九石余、「草山有」と注記される。天保郷帳では高七一五石余。租率は姫路藩本多氏領時代の元和四年(一六一八)四ツ三分、因幡鳥取藩領時代の寛永二〇年四ツ七分、正保三年(一六四六)五ツであったが、貞享四年(一六八七)から明治四年(一八七一)までの旗本福本池田領時代には五ツ一分の定免であった。
新野村
にいのむら
[現在地名]浜岡町新野
下朝比奈村の西、新野川上流域に位置する。古代の城飼郡新野郷(和名抄)の遺称地。中世は笠原庄に含まれ、新野池・新野池新田としての所見が多い(→池新田村)。鎌倉幕府御家人の新野氏、また今川氏庶流としてみえる新野氏の名字の地。現岐阜県大垣市赤坂町の安楽寺所蔵の鰐口銘によると、永正一一年(一五一四)四月吉日に「願主新野庄」「佐谷住人」が「在谷薬師」にこの鰐口を奉納している。現在の新野地区の小字に「有ケ谷」があり(「遠淡海地志」では「アリガヤ」)、薬師堂も現存する。
新野村
しんのむら
[現在地名]中野市大字新野
東から南は更科・高遠・間山村に接し、背後に古曾崖城をもつ屏風山を負い、西は篠井、北は中野・小田中等の町村に向かって広く開けている。
新野(または真野)は「和名抄」流布本に記載されている高井郡五郷の一である「日野比無乃」に属している。嘉暦四年(一三二九)三月の諏訪社上社五月会・花会・御射山頭役結番では、東条庄内の真野地頭は御射山左頭を鎌倉幕府より割り当てられている(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)。また同年新野は同社に玉垣一間を寄進している(「大宮御造栄之目録」諏訪大社上社文書)。これより先、弘安元年(一二七八)新野太郎景経が中野氏と養子縁組をしていることがみえる(「鎌倉幕府下知状」市河文書)。
新野村
にいのむら
[現在地名]浜北市新野
豊田郡に所属。天竜川の右岸の氾濫原に立地する。周囲を高薗村に囲まれている。江戸時代の支配領主の変遷は中条村に同じ。松平忠頼領郷村帳では高四〇石余(うち一七石余は川成)、畑四町六反余、ほかに法恩寺(現報恩庵)領一石余。正保郷帳では田方五〇石余、寺領一石余。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高五〇石余、家数一〇。元禄郷帳では高五一石余。
新野村
にいのむら
[現在地名]大淀町大字新野
越部村の東に位置する。元禄郷帳・「大和志」には「ニイノ」村と訓ずるが、現地では「にの」という。官上郷のうち。慶長郷帳によると村高は一六二・一七五石、幕府領(代官楢村監物)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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