和歌山平野の北東部、
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
わが国でも最も古い歴史のある神社の一つで、早くから朝野の崇敬を集めた。日前神に関する最も早い文献は「日本書紀」神代上の一書で、天石窟に隠れた
次に国懸神の初見は「日本書紀」朱鳥元年(六八六)七月五日条の「幣を紀伊国に居す国懸神・飛鳥の四社・住吉大神に奉りたまふ」という記事である。この国懸神はどのような神か、日前神との関係もつまびらかでない。「釈日本紀」は、天照大神を天懸神とよぶのに対して、その前霊である日前神を国懸神とよぶとし、日前・国懸は同一神とする解釈がみえ、また「続風土記」所引の国造家旧記は「以神鏡為日前大神之御神体、以日矛為国懸大神之御神体也」とする解釈を示している。現在神社ではこの国造家旧記の解釈をとっているが、最近の研究では、日前は檜隈とも記すべき地名、国懸の懸はカカスと読みカガヤカスの意で、神威が国にあまねく及ぶとの意であり、本来両宮は「日前に坐ます国懸神社」ともよぶべき一神社で、二座の神であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山市秋月に鎮座。同一境内に日前・国懸両宮があり,西方の日前神宮は日前大神を主に,相殿に思兼(おもいかね)命,石凝姥(いしこりどめ)命をまつり,東方の国懸神宮は国懸大神を主に,相殿に玉祖(たまのや)命,明立天御影(あかるたちあめのみかげ)命,鈿女(うずめ)命をまつる。両神宮を一括して日前(にちぜん)宮と通称される。《日本書紀》《古語拾遺》の天磐戸(あまのいわと)の段では,天照大神が素戔嗚尊の暴状を怒って天石窟(あまのいわや)にこもったとき,思兼神の発案で石凝姥が天香山(あまのかぐやま)の銅をとり,天照大神の神威をかたどる鏡を鋳造した旨を記したあと,〈これすなわち紀伊国にまします日前神〉と記しているが,日前神宮はその日像鏡を,国懸神宮は日矛鏡を御霊代(みたましろ)として奉斎すると伝える。天孫降臨にあたり,この鏡が紀伊国造(きのくにのみやつこ)の祖天道根(あめのみちね)命に授けられたことより神武天皇は天道根命を紀伊国造とし,国造はこの神を名草郡毛見の浜の宮にまつり,垂仁天皇16年に神託により現在地に奉遷,以後紀伊国造家紀氏が奉仕してきたという。686年(朱鳥1)天武天皇奉幣,692年持統天皇も奉幣のあと,806年(大同1)の牒に,神封日前神56戸,国懸神60戸とあるが,授位のことがみられないのは伊勢神宮と同様特別視されてのことであろう。両神宮は定期的ではないが35~50年ほどの間隔で遷宮が行われ,《続左丞抄》巻二に857年(天安1)より1235年(嘉禎1)までの遷宮年限例を記すほか,その社殿,課役等についても記している。延喜の制で,両社とも名神大社,祈年・月次・相嘗・新嘗の奉幣をうけ,のち紀伊国一宮となる。中世にも朝廷の崇敬をうけたが,その末期にはたびたび炎上,ことに1584年(天正12)国造紀忠雄は豊臣秀吉方に反抗したため災禍にあい,忠雄は一時神体を奉じて高野山麓に避難したこともあった。江戸時代には幕府また紀州藩主の保護をうけて復興し,多数の摂社・末社を擁していた。旧官幣大社。例祭9月26日。
執筆者:鎌田 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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