日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本労働組合会議」の意味・わかりやすい解説
日本労働組合会議
にほんろうどうくみあいかいぎ
(1)第二次世界大戦前における右派・中間派労働組合の戦線統一体。1932年(昭和7)9月25日、日本労働倶楽部(くらぶ)を改組発展させ、反共産主義・反無政府主義・反ファシズムの「健全なる労働組合主義」を指導方針とし、労働戦線の右翼的統一を実現した。加盟団体は日本労働総同盟(総同盟)、日本海員組合、全国労働組合同盟(全労)など11団体、28万人で、当時の組織労働者の7割に達した。日本労働運動史上初めての恒常的な全国的連合組織であったが、日本交通労働総連盟など合法左翼の参加を得られず、国家主義的傾向を顕著にした日本労働組合総連合や造船労働連盟を含んでいたので、時局の進展とともに右傾化し、ファシズム台頭への防波堤とはなりえなかった。活動では、雑多な傾向の組合より構成されたので、一致して行動できる労働組合法・労働者保護立法の促進、国際労働会議への代表派遣に関する協力などに限られた。戦時色が濃くなり労働組合への圧迫が強くなると、政府に対し「産業及び労働の統制に関する建議」(1933)を行い、労資協調と産業協力を重視するようになった。ファッショ化の進展のなかで労働組合主義を守ろうとしたが、脱退や解散する組合が相次いで、しだいに衰えた。38年海員組合が皇国海員同盟を結成し離脱すると、これとの間に日本労働国策協会を結成し、連合体の体面を保とうとしたが、40年7月19日解散を余儀なくされた。
(2)中立系労働組合の全国組織。略称日労会議。1946年(昭和21)10月25日、民主人民連盟の斡旋(あっせん)で、全日本産業別労働組合会議(産別)・日本労働組合総同盟(総同盟)に属さない中立系労働組合の結集を進め、労働戦線統一を促進するため、三田村(みたむら)四郎らの奔走により結成された。しかし大阪を中心に208組合、12万人にとどまり、49年7月3日全日本労働組合連盟へと発展的に解消した。
[山田武生]
『労働運動史料刊行委員会編『日本労働運動史料 第7、8巻』(1964、75・東京大学出版会)』▽『労働省編『資料労働運動史』各年版(労務行政研究所、2001年4月発行の平成13年度版より、厚生労働省編)』