学校教職員を組合員とする全国組織の労働組合。略称日教組。組合員数約30万人(2011年3月)。日本労働組合総連合会(連合)加盟組合。二・一スト後の1947年(昭和22)6月8日、全日本教員組合協議会(全教協)と教員組合全国連盟(教全連)が統一し、都道府県単位の教職員組合の全国連合体として日教組が結成され、1969年6月の全国大会で、公立・私立を問わず幼稚園から大学までの教職員の組織となった。しかし、1950年4月には日教組高校部の一部が脱退して全日本高等学校教職員組合(全高教。1956年日高教と改称、1963年に分裂)が結成された。1950年の日本労働組合総評議会(総評)結成時には日本労働組合総同盟(総同盟)を別にして、組合員数46万人と最大の加盟単一産業別労働組合(単産)であった。
日教組結成後は、第二次世界大戦敗戦後の混乱のなかで教育復興闘争を課題としてきた。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)と対日講和条約をめぐる論議のなかで戦争再発への危機感を深め、1951年1月の日教組中央委員会では「教え子をふたたび戦場に送るな」というスローガンを採択、第1回教育研究全国集会(教研集会)を開催した。以後、日教組は1953年の「教育二法」(義務教育学校職員の政治活動制限と校長の管理職化。成立1954年)阻止闘争、1956年の教科書検定強化反対闘争、事実上のストライキ闘争となった1957年の勤務評定反対闘争(勤評反対闘争)を展開するなど教育の国家統制の動向に激しく反対した。1960年代に入ると教員の賃金・労働条件改善などの課題を全国統一闘争で指導し、全国一斉学力テスト反対闘争(学テ反対闘争。方針決定1961年)でストライキが実施されるなど、産業別統一闘争強化の方針を確立した。さらに中央教育審議会の「期待される人間像」とそれによる教科課程の改変に反対する闘争を繰り広げるなど、国民教育の創造を目ざす運動を発展させ、1951年以来の教研集会はその規模もテーマも豊富になった。
石油ショック後の狂乱物価時の1974年春闘1日ストでは本部委員長ら21人が逮捕され、12都道府県13組合999か所が捜索を受けた。この事件と前後して発表された日本共産党の「教師=聖職論」をめぐる論議は、教師のストライキ実施方法で日教組内に組織的対立をもたらした。
1980年代末の労働戦線統一の論議では組織内が分裂し、除名問題が起きたことから1989年(平成1)11月、全日本教職員組合協議会(1991年以降全日本教職員組合=全教、2011年3月時点で組合員数10万5000人)が結成され、全労連の加盟組合となった。以後、日教組と全教がライバルユニオンの関係となり、現在に至っている。
[大野喜実・川崎忠文・早川征一郎]
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… 地方公務員のうち教員は,1946年12月,全日本教員組合協議会(全教協)を結成して全官公庁共闘委員会(全官公庁労協)に加わった。47年6月,他の教員組合と合同して日本教職員組合(日教組)となる。57~59年の勤評反対闘争など文教政策をめぐって文部省との対立を繰り返し,このため脱退者が発生し,反対派は66年日本教職員連合(日教連)を結成した。…
…日本教職員組合の略称。1947年6月に結成された都道府県単位の教職員組合の連合体。…
※「日本教職員組合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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