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日柳燕石 くさなぎ えんせき

美術人名辞典の解説

日柳燕石

幕末の勤王家。讚岐生。姓は草薙、のち日柳に改める。名は政章、字は士煥。詩書画を能くする。吉田松陰・木戸田允ら文人・志士と交わる。北越征討総督仁和寺宮の史官として従軍した。明治元年(1868)歿、52才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日柳燕石 くさなぎ-えんせき

1817-1868 幕末の博徒,尊攘(そんじょう)運動家,漢詩人。
文化14年3月14日生まれ。生家は讃岐(さぬき)(香川県)琴平の質商,地主。三井雪航(せっこう)に漢詩をまなぶ。博徒の顔役となり,勤王派ともまじわる。慶応元年高杉晋作をかくまった罪で入獄。4年出獄し,会津(あいづ)戦争にしたがい,8月25日越後(えちご)(新潟県)柏崎で病死した。52歳。名は政章。通称は加島屋長次郎。著作に「呑象楼(どんぞうろう)詩文稿」。
【格言など】病夫一枕(いっちん)秋風に伏す……只祈るところは吾王早く功を立てられんことを(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

日柳燕石

没年:明治1.8.25(1868.10.10)
生年:文化14(1817)
幕末の勤皇博徒。本名加島屋長次郎。日柳燕石は漢詩人としての雅号。讃岐国(香川県)榎井村生まれ。生家加島屋は質屋兼地主で裕福であり,幼少より漢籍に親しんで学もあったが,榎井村の隣が金比羅様社領で博奕も盛んだったことから博徒になった。16歳ごろからの遊蕩で生家を食いつぶしたが,金比羅様の賭場からあがるテラ銭で潤沢。旦那博徒のため切った張ったの逸話にとぼしい。 高松藩勤皇派の魁で藩主一族の松平左近の影響で勤皇派になり,安政2(1855)年同藩勤皇派と組んで挙兵を計画し,6年に兵器製造,文久3(1863)年には軍費2000両の調達にかかったが,露見して藩士たちは捕らえられたものの燕石は無事。慶応1(1865)年長州の高杉晋作が紅屋喜助の変名で妾おうのと四国へ逃げてきたのをかくまった。高杉の奇兵隊に博徒出身者が多いのは燕石との付き合いからだといわれる。高杉のほかにもかくまわれた勤皇の志士は多く,燕石から漢詩をもらってその志を称されているが,サムライが博奕打に漢詩をもらうのも妙。慶応1年閏5月に逮捕され,明治1(1868)年出獄後,征討総督仁和寺宮(彰仁親王)の日誌方として奥羽戦争に参戦し,柏崎の陣中で病没した。維新の内戦に参加した博徒は多いが,勤皇派は燕石,佐幕派は新門辰五郎が代表。<著作>『椚蝨余話』<参考文献>田村栄太郎『やくざ考』

(平岡正明)

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世界大百科事典 第2版の解説

くさなぎえんせき【日柳燕石】

1817‐68(文化14‐明治1)
幕末の志士。讃岐国琴平の質商・地主の加島屋に生まれる。名は政章,通称は加島屋長次郎,燕石は号。詩文を学び,のち博徒の長となる。京坂を遊歴して高杉晋作,木戸孝允中岡慎太郎らの志士と交際し,また彼らを自邸に庇護もした。高杉潜匿のゆえをもって高松藩に捕らわれ,1868年赦免された。会津征討軍越後口総督仁和寺宮に書記役として従行したが,越後柏崎に病没した。《日柳燕石全集》がある。【井上 勝生】

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大辞林 第三版の解説

くさなぎえんせき【日柳燕石】

1817~1868) 幕末の勤王家。名は政章。通称、加島屋長次郎。讃岐さぬきの人。俠客である一方、詩文に優れ、また長州・土佐の尊攘派を助けて活躍。戊辰ぼしん戦争に従軍中、柏崎で病死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日柳燕石
くさなぎえんせき

[生]文化14(1817).讃岐,籏岡
[没]明治1(1868).8. 越後,柏崎
幕末勤王の志士。名は政章,通称は加島屋長次郎。幼時から歴史,詩文,画に長じた。高杉晋作ら志士を助け高松藩に捕えられたが,明治1 (1868) 年出獄し戊辰戦争に参加,病死。博徒 (ばくと) としても有名であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日柳燕石
くさなぎえんせき
(1817―1868)

幕末の勤皇家。讃岐(さぬき)国那珂(なか)郡榎井(えない)村(香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町)の出身。名は政章(まさあき)、字(あざな)は士煥(しかん)、号は柳東・春園、通称を加島屋長二郎といった。幼少のころから叔父石崎青崗(せいこう)について学び、さらに琴平の宮医三井雪航(みついせっこう)に学び、詩文や書画に長じた。任侠(にんきょう)の士(博徒の親分)であったが、のち藩政を批判し勤皇精神をもつに至る。呑象(どんぞう)楼と名づけた居宅に身を寄せる者は多く、また吉田松陰(しょういん)、桂小五郎(かつらこごろう)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、中岡慎太郎(しんたろう)、本間精一郎(ほんませいいちろう)、椋木(くらき)八太郎などとも交流が深かった。とくに高杉晋作(しんさく)をかくまい逃亡させた罪により1865年(慶応1)投獄された。出獄後、北越征討の大総督仁和寺(にんなじ)宮の日誌方として従軍し、越後柏崎(えちごかしわざき)陣中で病死した。著書に『呑象楼遺稿』『柳東軒略稿』『西遊詩草』などがある。[橋詰 茂]

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