旧集成館(読み)きゅうしゅうせいかん

百科事典マイペディア 「旧集成館」の意味・わかりやすい解説

旧集成館【きゅうしゅうせいかん】

鹿児島県鹿児島市,鹿児島湾に面した仙巌園庭園西側に隣接する産業遺産群。島津斉彬(なりあきら)により設けられた反射炉溶鉱炉,ガラス工場などからなる。薩英戦争一旦焼失したが,島津忠義によって再興。現存する機械工場は1865年に完成した洋式石造建築で,蒸気機関が設置されていたという。1915年に工場群は閉鎖となり,1923年からは〈尚古集成館〉として,島津氏に関する展示資料館となっている。2015年,〈明治日本の産業革命遺産 製鉄製鋼造船石炭産業〉の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録。→鹿児島藩
→関連項目旧鹿児島紡績所技師館関吉の疎水溝寺山炭窯跡

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国指定史跡ガイド 「旧集成館」の解説

きゅうしゅうせいかん【旧集成館】


鹿児島県鹿児島市吉野町にある工場跡。幕末に薩摩藩28代藩主、島津斉彬(なりあきら)が造った近代工場群の跡。1959年(昭和34)に国の史跡に指定された。斉彬は1852年(嘉永5)に磯邸(吉野町磯)の竹林を切り開いて銑鉄を溶かす反射炉の建設に着手後、多くの工場を建設し、1857年(安政4)にこれらを総称して集成館と命名。反射炉のほか、大砲鋳場、木炭倉庫、溶鉱炉、機械所、役所、砲身に穴をあける鑚開台工場、製薬所、鍋釜製造所、ガラス(薩摩切り子)製造場などがあった。これらの工場では毎日約1200人の職人が働いていたといわれているが、斉彬の死後事業は縮小され、1863年(文久3)の薩英戦争で反射炉以外はほとんど焼失。この戦争によって西洋文明の優位を知った29代藩主・島津忠義は集成館の再興に着手し、さらに充実した工場群を建設したが、1871年(明治4)の廃藩置県後に官有となり、陸軍省の大砲製造所、海軍の造船所となった。1877年(明治10)の西南戦争では私学校の生徒が占拠。その後、1889年(明治22)に再び島津家の所有となり、1915年(大正4)に閉鎖。これら工場群のうち、1865年(慶応1)に竣工した蒸気鉄工機械所の建物が残され、島津家の歴史資料館・尚古集成館として活用されている。JR鹿児島本線ほか鹿児島駅から鹿児島交通バス「仙巌園前」下車、徒歩すぐ。

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