旭堂南陵(読み)きょくどうなんりょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「旭堂南陵」の意味・わかりやすい解説

旭堂南陵
きょくどうなんりょう

講釈師。旭堂は元来「あさひどう」であるが、初代大阪に上った際、東京の旭堂と区別するため「きょくどう」ととなえたようである。

初代
(1858―1911)本名浅井金次郎。駿河(するが)(静岡県)生まれ。旅回りを重ね、『義士伝』であて、大阪に定着。生玉(いくたま)神社の御旅所の席主となる。晩年に一道(いちどう)と改名。世話好きで門弟をよく養った。

2代
(1877―1965)本名浅井鶴造。大阪・天満生まれ。本姓は樋口(ひぐち)。初代の弟子で、養子となる。3代正流斎南窓(しょうりゅうさいなんそう)、初代旭堂南陵、東京で4代神田伯竜(はくりゅう)に師事。24歳で真打となり小南陵、1906年(明治39)2代目を襲名。『太閤記(たいこうき)』『祐天吉松(ゆうてんきちまつ)』などを得意とし、大阪講談の孤塁を守った。

3代
(1917―2005)本名浅井美喜夫。2代の実子。大阪市生玉生まれ。南海、小南陵を経て1966年(昭和41)3代目襲名。先代譲りの『太閤記』などを得意とした。大阪最後の講釈師としての責任を自覚し、よく後継者を育て、大阪講談は廃絶を免れた。上方(かみがた)講談協会会長を務めた。

4代
(1949―2020)本名西野康雄。大阪府堺市生まれ。1968年(昭和43)3代目に入門。南右を経て、1978年真打となり3代目小南陵を襲名。講釈師の活動のほかに、参議院議員を1期務め、また俳優としても活躍。講談研究の本も著す。2006年(平成18)4代目を襲名。

[延広真治]

『3代目旭堂南陵著『上方講談三代記』(1982・夏の書房)』『3代目旭堂小南陵著『明治期大阪の演芸速記本基礎研究』『明治期大阪の演芸速記本基礎研究 続』(1994、2000・たる出版)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「旭堂南陵」の解説

旭堂 南陵(3代目)
キョクドウ ナンリョウ


職業
講談師

肩書
上方講談協会会長

資格
要記録無形文化財保持者(講談)〔平成9年〕

本名
浅井 美喜夫(アサイ ミキオ)

別名
初名=旭堂 南海,前名=旭堂 小南陵(2代目)

生年月日
大正6年 1月25日

出生地
大阪府

学歴
大阪貿易学校卒

経歴
2代目旭堂南陵の二男で、昭和8年父の門に入り、11年旭堂南海の名で初舞台。15年2代目小南陵で真打ち。41年3代目南陵を襲名し、上方講談の第一人者として戦後に衰微の一途をたどった上方講談の復興に尽力した。「太閤記」を得意とし、タヌキ親爺・家康をののしる会を開いて、豊臣びいきの大阪人を集めたこともある。著書に「上方講談三代記」など。

受賞
勲五等双光旭日章〔平成8年〕 大阪舞台芸術賞〔平成7年〕,上方お笑い大賞(特別功労賞 第34回)〔平成17年〕

没年月日
平成17年 8月17日 (2005年)

家族
父=旭堂 南陵(2代目)

伝記
一芸一談 桂 米朝 著(発行元 筑摩書房 ’07発行)


旭堂 南陵(2代目)
キョクドウ ナンリョウ


職業
講談師

本名
浅井 鶴造

別名
前名=旭堂 南花,旭堂 小南陵

生年月日
明治10年 9月15日

出生地
大阪府 大阪市

経歴
18歳で東京の正流斎南窓(松本鉄之助)の弟子となり鶴窓と名乗り、その後初代南陵に師事して南花。20歳で上京し、神田伯龍(松村伝吉)の下で修業帰阪後、小南陵から明治42年2代目南陵を襲名、人気を得た。東京で修業したので純粋の上方系ではないが、昭和以降の衰微した大阪の講談を継承、大長編「太閤記」など多数の演題と取り組み、豊かな声量で聴衆を魅了した。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。

受賞
紫綬褒章〔昭和37年〕 大阪市民文化賞〔昭和26年〕,NHK放送文化賞〔昭和30年〕

没年月日
昭和40年 11月19日 (1965年)

家族
長男=旭堂 南陵(3代目)

伝記
けったいな人びと―ホンマモンの芸と人 棚橋 昭夫 著(発行元 図書出版浪速社 ’00発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「旭堂南陵」の解説

旭堂 南陵(2代目)
キョクドウ ナンリョウ

明治〜昭和期の講談師



生年
明治10(1877)年9月15日

没年
昭和40(1965)年11月19日

出生地
大阪府大阪市

本名
浅井 鶴造

別名
前名=旭堂 南花,旭堂 小南陵

主な受賞名〔年〕
大阪市民文化賞〔昭和26年〕,NHK放送文化賞〔昭和30年〕,紫綬褒章〔昭和37年〕

経歴
18歳で東京の正流斎南窓(松本鉄之助)の弟子となり鶴窓と名乗り、その後初代南陵に師事して南花。20歳で上京し、神田伯龍(松村伝吉)の下で修業、帰阪後、小南陵から明治42年2代目南陵を襲名、人気を得た。東京で修業したので純粋の上方系ではないが、昭和以降の衰微した大阪の講談を継承、大長編「太閤記」など多数の演題と取り組み、豊かな声量で聴衆を魅了した。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「旭堂南陵」の意味・わかりやすい解説

旭堂南陵 (きょくどうなんりょう)

大阪の講釈師。(1)2代(1877-1965・明治10-昭和40)の本名浅井鶴造が有名。東京から下阪した初代に入門,これも東京出身の4代正流斎南窓(しようりゆうさいなんそう)に東京流の修羅場から手ほどきを受けた。名古屋,東京で修業したのち,小南陵から南陵となり,第2次大戦中から戦後の一時期まで,大阪ただひとりの講釈師として活躍した。得意は大坂落城を語る《難波戦記(なんばせんき)》(大坂軍記物)。(2)3代(1917(大正6)-2005(平成17)) 本名浅井美喜夫。2代の実子。戦後大阪の講談復活に力を尽くした。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「旭堂南陵」の意味・わかりやすい解説

旭堂南陵【きょくどうなんりょう】

大阪の講釈師。初代〔1858-1911〕は本名浅井金次郎。東京から大阪に移っている。2代〔1877-1965〕は本名浅井鶴造。初代に入門し,名古屋・東京で修業した後,旭堂小南陵を襲名,さらに旭堂南陵と改名。第2次世界大戦中から戦後の一時期にかけて,大阪でただ一人の講釈師として活躍し,得意演目は《難波(なんば)戦記》。3代〔1917-2005〕は2代の次男で,本名浅井美喜夫。大阪府生れ。大阪貿易学校卒業。1936年に初高座,1966年には3代旭堂南陵を襲名。戦後の上方(かみがた)講談の復活に尽力し,上方講談協会会長も務めた。主な演目は《太閤記》《難波戦記》など。著書に《上方講談三代記》がある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「旭堂南陵」の解説

旭堂南陵(3代) きょくどう-なんりょう

1917-2005 昭和-平成時代の講談師。
大正6年1月25日生まれ。2代旭堂南陵の次男。父の門下で,南海,2代小南陵をへて昭和41年3代を襲名。「水戸黄門」「太閤記」を得意とした。上方講談協会会長。上方講談界の復活につくし,おおくの門弟をそだてた。平成17年8月17日死去。88歳。大阪出身。大阪貿易学校卒。本名は浅井美喜夫。著作に「上方講談三代記」。

旭堂南陵(2代) きょくどう-なんりょう

1877-1965 明治-昭和時代の講談師。
明治10年9月15日生まれ。大阪で4代正流斎南窓,初代旭堂南陵に師事。上京して3代神田伯竜のもとで修業,帰阪して2代南陵をつぐ。「難波(なんば)戦記」「太閤記(たいこうき)」を得意とし,衰退した大阪講談をただひとりでまもった。昭和40年11月19日死去。88歳。大阪出身。本名は浅井靏造(つるぞう)。

旭堂南陵(初代) きょくどう-なんりょう

1858-1911 明治時代の講談師。
安政5年生まれ。旅まわりののち,大阪生玉神社お旅所の席主となる。門弟の養成につくした。当たり芸は「義士伝」。明治44年死去。54歳。駿河(するが)(静岡県)出身。本名は浅井金次郎。後名は一道。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「旭堂南陵」の解説

旭堂 南陵(3代目) (きょくどう なんりょう)

生年月日:1917年1月25日
昭和時代;平成時代の講談師
2005年没

旭堂 南陵(2代目) (きょくどう なんりょう)

生年月日:1877年9月15日
明治時代-昭和時代の講談師
1965年没

旭堂 南陵(4代目) (きょくどう なんりょう)

生年月日:1949年9月4日
昭和時代;平成時代の講談師

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

ドクターイエロー

《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...

ドクターイエローの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android