時国村(読み)ときくにむら

日本歴史地名大系 「時国村」の解説

時国村
ときくにむら

[現在地名]輪島市町野町西時国まちのまちにしときくに町野町南時国まちのまちみなみときくに町野町まちのまち曾々木そそぎ

町野川下流右岸に位置。北は日本海に面し、北東部には岩倉いわくら山がある。町野川河口付近にはかつて湊があり、現在もみなとの地名が残る。村名の由来となった時国家は町野川下流域に影響力をもった有力名主の系譜をひき、岩蔵いわくら全体の年貢・上成などの納入を請負う有力百姓家の一であると同時に、分家の柴草屋とともに下人を使役して湊を拠点とする廻船業の主導権を握っていた。また曾々木浦での製塩に力を注いだほか、元和四年(一六一八)と推定される前田家家老連署奉書(上時国家文書)によれば、「鳳至郡なじミ村之内東山」に鉛山を見いだしている。同家には当主が隠居する庵室(あぜち)の制度があった。少なくとも天正期(一五七三―九二)にさかのぼるもので、寛永(一六二四―四四)の頃には当主藤左衛門が庵室に隠居したのを機に、面屋(おもや)惣領次郎兵衛家と庵室の藤左衛門家が分立した。以後、面屋は上時国、庵室は下時国と称されるようになり現在に至っている。なお以下では上時国家(現在の時国健太郎家)・下時国家(現在の時国宏家)に伝来する文書を上時国家文書・下時国家文書と呼称する。

時国村はかつては大刀村・晦日ひずめ村・曾々木村に分れていたという(「能登名跡志」など)。天文一〇年(一五四一)一二月二四日の山崎弥太郎女売渡状(上時国家文書、以下断らない限り同文書)に買手として「下町野領家方ヒツメ、時国衛門太郎」の名がみえる。元亀三年(一五七二)には時国四郎三郎が町野川「河端」の「光福庵寺領」「福光名」を長綱連から宛行われており(同年一二月一六日長綱連判物)、天正五年には長氏を含む畠山五人衆と越後の長景連の戦いに際し、「時国四郎左衛門時信」が畠山方の要請に応じ出陣したという(天保四年「先祖由緒并一類付帳」下時国家文書)。同四年一一月の下町野庄岩蔵年貢米上成算用状によれば、上成・年貢米等を収納する蔵を管理していた時国はほかの請負人が未進を出しているのに対して「鈴屋行友」とともに過上となっており、その一部は加役などの算用に充てられている。

天正一四年分の年貢算用状に「下町野之内 時国村」とみえ、高五一〇俵余、うち荒七三俵余・当開一〇俵余、残高四二六俵余のうち一〇六俵余が年貢免除。後欠のため定納以下は不詳。村高のすべてが時国家の持高で、初めは加賀藩領であった。慶長一一年(一六〇六)から面屋分は土方領で、同年の土方雄久知行目録によれば高四三二俵余、うち荒五一俵余、残高の三割五分が百姓得分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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