晴山村(読み)はれやまむら

日本歴史地名大系 「晴山村」の解説

晴山村
はれやまむら

[現在地名]深浦町風合瀬かそせ

北は日本海に面し、道路は海岸沿いのほかに山間部経由があり、東北は前者を通って田野沢たのさわ村、西南は後者で風合瀬村に通じる。

天和三年(一六八三)の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)晴山御蔵はれやまおくら新田とある。貞享四年(一六八七)検地晴山地子はれやまじし新田を晴山村に改名したという(津軽平野開拓史)。元禄三年(一六九〇)赤石組に属し、村位は下とある(平山日記)。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、風合瀬村の支村より独立した。享和二年(一八〇二)の「測量日記」に「家十軒、海道住せず」とある。嘉永三年(一八五〇)の「東奥沿海日誌」に「針山村 此村ハ往来のきはにハあらず。


晴山村
はれやまむら

[現在地名]軽米町晴山・軽米

瀬月内せつきない川左岸に位置し、南は山内さんない村。八戸街道(上り街道)が通り、西方観音林かんのんばやし(村)から猿越さるごえ峠を越えて二戸郡に至る。天正一九年(一五九一)と推定される南部信直書状(福岡川嶋文書)によると、南部信直は野田氏と久慈氏が協力して晴山・高家こうけに出陣するよう要請している。下晴山には同年の九戸政実の乱に加わった晴山治部少輔と晴山玄蕃が拠ったとされる晴山館跡がある(「九戸軍談記」など)。晴山氏滅亡後、慶長一九年(一六一四)に当村のうち八四石余が四戸久助の知行地となった(「南部利直知行宛行状」花巻四戸文書)。元和四年(一六一八)田鎖庄右衛門は陸奥三戸城の普請を賞され、当村のうち五〇石を与えられたという(参考諸家系図)


晴山村
はるやまむら

[現在地名]相良村四浦ようら 晴山

川辺かわべ川中流左岸の晴山谷に沿う標高一八〇―二〇〇メートルの緩斜面上の狭い平地に位置し、北は田代たしろ村、西の川辺川対岸は平川ひらこう村、南は河辺かわべ村、東は深田ふかだ(現深田村)須恵すえ(現須恵村)と接する。慶長国絵図に「はる山村」として二三石余とあり、寛永一一年(一六三四)の郷村高辻帳に本田高三三石余とあり、「此外田代平川・初神・晴山・大畑、此五ケ村新田無」とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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