改訂新版 世界大百科事典 「有田=クレーギー会談」の意味・わかりやすい解説
有田=クレーギー会談 (ありたクレーギーかいだん)
1939年7月に天津租界問題の解決のため,東京で開かれた日英会談。同年4月,天津のイギリス租界で親日派の中国人海関監督が暗殺される事件が起こった。日本側の容疑者引渡しの要求に対しイギリス総領事が物的証拠がないとして拒否したため,6月に入り陸軍は報復措置として天津のイギリス租界を封鎖した。陸軍はこの事件を利用して,イギリスの蔣介石援助政策の変更と〈東亜新秩序〉建設への協力を迫った。結局この問題は,東京で有田八郎外相とR.L.クレーギー駐日イギリス大使との会談によって解決がはかられることになった。会談を前に,東京では右翼を中心とする排英運動が展開されたが,その背後には日独伊三国同盟の締結をねらう陸軍の煽動があったとされている。7月15日から開かれた会談では,有田外相から中国の現状の承認と日本軍への利敵行為の排除という強硬案が示された。クレーギーはこれに難色を示したが,不穏なヨーロッパ情勢の渦中にあるイギリスの立場を配慮せざるをえず,日本案に同意を余儀なくされた。一般協定は7月22日に成立した。アメリカはこれに強く反発し,26日,日本に対し日米通商航海条約の破棄を通告した。日本はこの通告に強い衝撃を受けたが,イギリスは逆に勇気づけられ,その後の租界内〈法幣〉流通禁止問題をめぐる日英会談では一歩も譲歩しない強い態度をとるに至った。
執筆者:芳井 研一
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