朝倉城跡(読み)あさくらじようあと

日本歴史地名大系 「朝倉城跡」の解説

朝倉城跡
あさくらじようあと

[現在地名]八鹿町朝倉 大平山

八木やぎ川右岸、朝倉集落南西の標高一五二・一メートルの丘陵上に位置し、集落との比高は約九〇メートル、城域は東西約一三〇メートル・南北約一一〇メートル。広谷ひろたに市場(現養父町)から峠を越えて現在の八鹿町域に入る旧山陰道を扼する交通の要衝に位置する。山頂に位置する主郭は東西約四〇メートル・南北約三五メートルのほぼ四角形状の削平地で、主郭の中心部には高さ約一・五メートルの櫓台状の曲輪(七×七メートル)があり、西側には低い土塁をめぐらせている。主郭の背後(南側)には帯状の曲輪と箱堀(幅七メートル、深さ四―五メートル)を配置し、主郭から北東に延びる尾根には二段の小曲輪(一部に石積みがみられる)と堀切・竪堀を設けている。また主郭から北西に延びる尾根には三段の小曲輪と堀切・竪堀を構築している。小曲輪群の存在から南北朝期に起源をもつと思われるが、大規模な主郭、主郭背後の箱堀、二つの堀切・竪堀などは戦国末期の改修をうかがわせる。

天保九年(一八三八)高柳たかやなぎ村大庄屋福田宗右衛門が幕府巡見使に提出した覚書(福田家文書)には朝倉村に「城跡三カ所御座候」と記されている。


朝倉城跡
あさくらじようあと

[現在地名]高知市朝倉

標高一〇三メートルのじよう山に築かれた平山城。北は谷を隔てて朝倉神社の神体山といわれる赤鬼あかぎ山、西は吾川あがわ郡境の連山に連なり、南は小平野を隔てて同じく吾川郡境の荒倉あらくら峠、東は東流するかがみ川沿いの平地部で、その両側に丘陵が連なり、杓田ひしやくだ石立いしたて神田こうだ鵜来巣うぐるすなどの諸城跡が並び、朝倉城における東方防衛線の様子がうかがえる。重松しげまつ城ともいった。長岡郡本山もとやま(現本山町)を本貫とした本山梅慶(茂宗)築城といい、本山氏の高知平野中央進出とその経営の拠点とされた。

大永年間(一五二一―二八)頃の本山氏について「元親記」に「東は一宮を堺、西は二淀川、南は浦戸を限り二郡の主也。朝倉の城を居城に持つ」とみえる。梅慶やその子茂辰は朝倉城を拠点として勢力を伸ばし、東の長宗我部氏、西の一条氏と対峙した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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