日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝鮮統治政策」の意味・わかりやすい解説
朝鮮統治政策
ちょうせんとうちせいさく
1910年8月29日に朝鮮が日本の植民地になり、45年8月15日に解放されるまでの期間の日本の統治政策。この期間は一般に「日帝時代」といわれ、朝鮮総督府が朝鮮を支配した。この35年間を支配政策からみると、次の三期に区分できる。第一期は、1910年の韓国併合(日韓併合)から19年の三・一独立運動まで。第二期は、1919年から31年の満州事変勃発(ぼっぱつ)まで。第三期は、1931年から45年の解放まで。
[宮田節子]
第一期
「武断政治」ともよばれ、司法、立法、行政の三権から軍事権までを一手に握った朝鮮総督の下に、憲兵隊司令官が警務総長を兼ねるという特殊な治安機構である憲兵警察が、全朝鮮に網の目のように張り巡らされた。憲兵警察は、「暴徒ノ討伐」から日本語の普及までの広範な権限をもち、朝鮮人の日常生活のなかに食い入った。さらに言論、出版、集会、結社の自由は完全に奪われ、新聞、雑誌は廃刊させられ、ただ総督府の御用紙である『京城日報』、その朝鮮語版の『毎日申報』などが許された。1911年8月には「朝鮮教育令」が制定され、朝鮮人を亜日本人化するための同化教育が開始された。
このような強権の下で植民地支配の基礎作業が行われた。土地調査事業(1910年3月~18年11月)、林野調査事業、交通・運輸機関の建設、金融・貨幣制度の整備、度量衡の統一などが遂行され、朝鮮は日本の食料・原料供給地、商品販売市場へと編成されていった。これら経済政策のなかで中軸となったのは土地調査事業である。これは朝鮮における土地所有権の確立と、統治のための財源確保にあった。この過程で封建地主と日本人地主の所有権が確定し、膨大な土地が国有地となり、大多数の農民は小作農に転落した。また会社設立を総督の許可制とする「会社令」(1910年12月)が出され、民族資本は抑圧された。これらの矛盾が1919年、三・一独立運動となって爆発した。
[宮田節子]
第二期
朝鮮人の全民族的抵抗により、日本は支配政策の転換を余儀なくされ、迂回(うかい)戦術をとりながら、民族分裂政策を積極的に追求していった。総督の文官任用の道を開き、従来の憲兵警察を普通警察にかえるとともに、警察官を約3倍に増強、一府郡一警察署、一面一駐在所主義を採用、治安体制を強化した。さらに1922年には朝鮮教育令を改正、同化教育を拡大強化した。その一方で、民意を探るため『東亜日報』『朝鮮日報』『開闢(かいびゃく)』などの民間の新聞、雑誌の発刊を20年から許可し、「地方自治」の看板を掲げ、極度の制限選挙を行い、親日派の育成を図り、「革命の防波堤」を築こうとした。またこの時期の経済政策は「産米増殖計画」によって代表される。日本国内の低米価、低賃金を維持するため、朝鮮で安価な米を増産させることを目的としたこの「計画」は、土地改良、耕種法の改善を中心に立案されたが、財界の不況、農民の抵抗などのために失敗し、その過程で土地を失う農民が増加した。期間中、米の生産高は微増したが、日本への輸出は激増し、農民は飢餓(きが)輸出を強いられ、30年には全農家の48%、約120万戸の絶糧農家が出る惨状となった。
[宮田節子]
第三期
1931年の満州事変に始まる十五年戦争下の朝鮮は、戦時動員体制に組み込まれ、それが戦局の拡大とともにいっそう強化された。とくに強靭(きょうじん)な民族意識をもつ朝鮮人を皇民化することに政策の主眼が置かれた。満州事変後、日本ファシズムの一環として「農村振興運動」(1933)が展開され、農家経済の更生が意図されたが、しかし増産と節約のみで農村が救済されうるはずもなく、日中戦の展開とともに精神運動の側面を強め、一連の皇民化政策へと連なっていった。神社参拝が強要され、「私供ハ大日本帝国ノ臣民」であると誓わせる「皇国臣民ノ誓詞」が制定(1937年10月)され、38年2月には徴兵制への地ならしとして志願兵制度が施行され、同時に「兵員資源」の裾野(すその)を広げるために朝鮮教育令の第三次改正も行われた。40年2月からは「創氏改名」が実施され、朝鮮人はついに自分の名さえ日本式に改めなければならなかった。さらに「大陸兵站(へいたん)基地」が唱えられ、日本の軍需産業のため、低賃金と長時間労働を強いられ、地下資源が大々的に略奪された。また日本国内の労働力不足を補うための強制連行は39年の「募集」に始まり、44年の「徴用」へと進んで、青紙一枚で連行され、過酷な労働を強いられた。このように十五年戦争下の朝鮮では、すべての政策は「戦力増強」を主軸に展開された。
[宮田節子]