改訂新版 世界大百科事典 「強制連行」の意味・わかりやすい解説
強制連行 (きょうせいれんこう)
1937年に日中全面戦争に突入して以降,労働力や軍要員の不足を補うために,日本は国策として朝鮮人,中国人を日本内地,樺太,南方の各地に投入したが,駆り集め方が強制的であったためこう呼ばれる。38年4月には国家総動員法が,翌年7月には国民徴用令が公布され,日本の内外地における労務動員計画がたてられた。39年の動員計画数110万のうち8万5000は朝鮮人に割り当てられ,各事業主にその狩出しを認可し,42年からは国家自身の手になる〈官斡旋〉に移行した。動員計画および動員数は表1のとおりである。動員数の半数近くを占める炭坑では,全労働者に占める朝鮮人の比率が,39年の3%から44年には33%に達した。
動員計画数を達成するために〈深夜や早暁,突如男手のある家の寝込みを襲い,或は田畑で働いている最中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ,かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭坑へ送り込み,その責を果〉たしたという。また,女性は女子愛国奉仕隊とか女子挺身隊として狩り出され,各地の戦線で従軍慰安婦にされた。当時,〈ニクイチ〉といわれ,軍人29人に慰安婦1人が配当されたという。
こうした各種の要員狩出しは,〈大東亜戦争〉期に入るとますます拡大していった。台湾では,南方各地に9万2748名が,日本内地の兵器厰に8419名が動員された(台湾総督府《台湾統治概要》1945)。戦時下における人狩りは朝鮮,台湾からさらに中国大陸にまで及んだ。朝鮮人,台湾人は〈帝国臣民〉にされていたが,中国大陸の住民はそうでなかったという違いはあったが,状況に変わるところはなかった。
42年11月,東条内閣は〈華人労務者内地移入ニ関スル件〉を閣議決定し,〈主トシテ華北ノ労務者ヲ以テ充ツル〉方針を打ち出した。まず,翌年4~11月にかけて行われた1420名の試験的移入をふまえ,44年2月,〈華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件〉なる次官会議決定により実施に移され,鉱山,土建,港湾など135の事業場に送り込まれた。連行状況は表2のとおりである。
これらの労務者は酷使のなかで死亡した者も多く,逃亡・反抗事件も多発した。戦後58年2月になって北海道の雪の中で発見された劉連仁は逃亡者の一人であったし,1945年6月の秋田県花岡鉱山・鹿島組出張所での中国人600人の蜂起は代表的な事例である(花岡事件)。45年8月の敗戦時,日本には約260万の朝鮮人と約10万の中国人(台湾を含む)がいたが,47年9月の外国人登録数では,それぞれ53万人と3万人に激減しており,多くは本国に帰還した。帰還の過程でも,朝鮮人徴用者など約4000名を乗せた浮島丸が,1945年8月24日,舞鶴湾で機雷に触れて沈没するという事故が起きている(浮島丸事件)。
日本はこうした強制連行についてしかるべき責任をとっておらず,劉連仁が発見されたときも〈不法入国者〉呼ばわりをしたほどである。平和条約発効直後に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法を頭に,多くの援護立法がなされたが,外国人はその対象からことごとく除外された。樺太に連行された約4万人の朝鮮人は取り残されたままで,75年12月には帰還請求訴訟が起こされ,77年8月には台湾住民から補償請求訴訟が起こされ,いずれものちの〈戦後補償〉裁判のさきがけとなった。
昭和天皇の死,ベルリンの壁の撤去などのあった1989年末,中国人強制連行を象徴する花岡事件の生存者・遺族が,使役企業鹿島建設に,(1)公式謝罪,(2)記念館の設置,(3)各500万円の補償を要求した。翌年,鹿島は謝罪はしたものの,結局補償は拒否,95年6月,裁判となった。
1990年4月,来日した韓国の慮泰愚大統領が日本政府に強制連行の名簿調査を依頼したが,70万人は超えるといわれるのに,その後2回に分けて約10万人分の名簿を提供するだけに終わった。皮肉にも,ソ連(当時)のゴルバチョフ大統領が来日したとき,約60万人のシベリア抑留者の名簿を持参したのは91年4月のことだった。
ちなみに,アメリカ,カナダにおける第2次大戦中の日系人強制収容問題は,1983年に米連邦議会特別委が謝罪と補償を勧告,88年に特別立法がなされ,カナダでは88年に日系人団体との協定によって解決が図られた。いずれも,大統領(または首相)の〈手紙〉および1人2万米ドル(当時260万円)の補償金が支払われた。
1990年代に入ると,韓国人徴用工らの日本政府や企業に対する補償請求裁判が相次いだ。すなわち,三菱重工(長崎),日本鋼管,不二越,新日本製鉄,三菱重工(広島)などである。戦後50年が過ぎても,強制連行の傷跡はまだ癒えていない。
執筆者:田中 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報