日本大百科全書(ニッポニカ) 「木村敏」の意味・わかりやすい解説
木村敏
きむらびん
(1931―2021)
精神科医、精神病理学者。朝鮮慶尚南道(けいしょうなんどう)生まれ。実家は京都の代々医師の家系。1955年(昭和30)京都大学医学部卒業。インターン時に村上仁(まさし)(1910―2000)の教えを受け、同時に1960~1961年宮本忠雄(1930―1999)らとビンスバンガーの『精神分裂病』Schizophrenie(1957)の翻訳を行う。さらに辻村公一(1922―2010)による、ハイデッガーを西田幾多郎と対比して読解する『存在と時間』講読ゼミへの出席などを通じて、現存在分析への関心を強める。二度のドイツ留学時(1961~1963、1969~1970)に、精神病理学者テレンバッハHubertus Tellenbach(1914―1994)、クラウスAlfredo Kraus(1928―1999)、ブランケンブルクらと出会う。1970~1986年名古屋市立大学医学部で助教授、教授、1986~1994年(平成6)京都大学医学部教授(その後名誉教授)、1994年より河合文化教育研究所主任研究員、1995~2001年(平成13)龍谷大学文学部客員教授。1981年シーボルト賞(西ドイツ)、1985年エグネール賞(スイス)受賞。
統合失調症(精神分裂病)の臨床経験をもとに、「あいだ」「こと」「自覚」「気」といった日本語に根ざした概念を駆使し、あるいはノエシス・ノエマといった既存の概念を大胆に改鋳しつつ、自己および対人関係の現象学的構造を探索した。著作活動は『自覚の精神病理』(1970)、『人と人との間』(1972)から始まったが、『異常の構造』(1973)を経て『分裂病の現象学』(1975)において結実した思想内容は、『あいだ』(1988)、『分裂病と他者』(1990)をはじめとするその後の著作でも一貫している。すなわち自己をノエシス的な自覚と定義する。つまり、自己を固定した実体(「もの」「ノエマ的自己」「リアリティ」)としてではなく生成の局面において運動態あるいはできごと(「こと」「アクチュアリティ」)としてとらえようとするのである。また、世界へと向かう行為に随伴して暗黙のうちに自己が自覚されるのであるが、統合失調症においてはこのような暗黙の自己生成が自明のものではなくなり、ノエシス的自己が他者化するために、自己の基盤となるべき自己と他者の「あいだ」(「メタノエシス」)が恐るべき他者として現れるというのである。
木村の思想形成はおもに統合失調症の分析を通じてなされたが、『自己・あいだ・時間』(1981)、『時間と自己』(1982)、『直接性の病理』(1986)においては、他の精神疾患を時間意識の側面から取り上げ、過去に拘泥するうつ病者の「ポスト・フェストゥム(あとの祭り)」、現在時において祝祭的瞬間が出現するてんかんの発作や境界性人格障害の「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」、そして予期しえない未来を先取りしようともがく統合失調症の「アンテ・フェストゥム(祭りのまえ)」という特徴を取り出し、時間意識の人間学的把握に新たな視点を提供した。1990年代以降は自他未分の間身体的領域である「あいだ」という概念を深化させ、生命論への傾斜をみせ、『生命のかたち/かたちの生命』(1992)では物理学者のカール・ワイツゼッカーやヘルダーリン、『偶然性の精神病理』(1994)ではニーチェを論じている。
[村上靖彦]
『『人と人との間』(1972・弘文堂)』▽『『分裂病の現象学』(1975・弘文堂/ちくま学芸文庫)』▽『『自己・あいだ・時間――現象学的精神病理学』(1981・弘文堂/ちくま学芸文庫)』▽『『直接性の病理』(1986・弘文堂)』▽『『あいだ』(1988・弘文堂/ちくま学芸文庫)』▽『『分裂病と他者』(1990・弘文堂/ちくま学芸文庫)』▽『『生命のかたち/かたちの生命』(1992/新版・1995・青土社)』▽『『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫)』▽『『自覚の精神病理』(紀伊國屋新書)』▽『『異常の構造』(講談社現代新書)』▽『『時間と自己』(中公新書)』▽『L・ビンスワンガー著、新海安彦・宮本忠雄・木村敏訳『精神分裂病』1・2(1960、1961・みすず書房)』▽『Joël BouderliqueLes doubles références philosophiques de la psychopathologie phénoménologique de Kimura Bin(in Études phénoménologiques no.25, 1997, Ousia, Bruxelles)』▽『Claire VincentPrésentation de la vie, de l'œuvre et des idées maîtresses du Professeur Kimura Bin (in Études phénoménologiques no.25, 1997, Ousia, Bruxelles)』