近世の武家において,当主の重病危篤に及び急に願い出る養子。急養子ともいう。幕府は初めこれを禁じていたが,無嗣断絶する家が少なくなく,とくに大名家の場合,多数の牢人が出て社会不安が増したため,1651年(慶安4)慶安事件を機に50歳未満に限って末期養子を認めた。50歳以上で子のない者は,健全なうちに相続人を決めておくことが当然と考えられていたといえる。また17歳未満の者は原則として養子を願い出ることはできなかった。1719年(享保4)に至って,50歳以上でも子が死去してまもない者には末期養子を認めるようになった。なお末期養子認定のためには,万石以上の場合大目付が,万石以下の場合支配頭もしくは目付が,出願人の病床に赴き,本人の生存を確認し,養子願が本人の意志であるかどうかを聞きただす判元見届という手続を必要とした。この席には親類や同役も立ち会うこととされていた。
執筆者:松尾 美恵子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸幕府法上、武士が急病危篤の際に急速に願い出る養子である。初めこのような急迫の時期に養子を願い出ることを幕府は許さなかったが、このために大名の家がつぶれて浪人が多く生じ、1651年(慶安4)の由比正雪(ゆいしょうせつ)の事件もこれが原因であると考えられたので、幕府は同年この禁令を緩め、50歳以下の者に限り末期養子をすることを認めた。のちには17歳以上の者たるを要すことになった。末期養子の願い書は、養父の生前に提出しなければならなかったが、ときにその死後に提出されるなどの弊害があったので、願い書が提出された場合、幕府は吏員を派遣して、病席に臨み、養父の生存を見届け、願い書の真偽をたださしめることが行われた。これを判元見届という。
[石井良助]
急養子とも。江戸時代,武家が没時に願い出る養子。武家社会において養子は家督の相続にかかわるため,少なくとも戦国期頃には,これを生前に養父本人から主君に届けるのが原則となっていた。江戸幕府も当初末期養子を禁止していたが,無嗣断絶による大名の改易が増加し,牢人が増加するにともない,これを緩和する方針をとる。1651年(慶安4)の慶安事件直後には,17歳以上50歳未満の者にかぎり末期養子を許可した。この場合,養子願いが養父本人のものであることを確認するため,判元見届(はんもとみとどけ)の手続きがとられ,万石以上は大目付が,それ以下は頭・支配や目付などが臨終の養父のもとに赴いた。のち50歳未満の制限も緩和されていく。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新