日本大百科全書(ニッポニカ) 「牢人」の意味・わかりやすい解説
牢人
ろうにん
浪人とも書く。(1)古代においては、本籍を離れ、他国で暮らす浮浪人をいう(浪の字を用いる)。715年(霊亀1)浮浪人にその居住地で調庸(ちょうよう)を課す土断(どだん)法が施行され、のちその地の戸籍に編入することを認め、律令(りつりょう)政府は浮浪人の再編成を図ったが、浮浪人は減らず、荘園(しょうえん)開墾の労働力として吸収されていった。三善清行(みよしきよゆき)の『意見封事十二箇条』(『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』所収)には、かつて2万人の壮丁(そうてい)を出した備中(びっちゅう)国邇磨郷(にまのごう)が、8世紀なかばに1900余人の課丁となり、9世紀なかばには70余人の課丁に減じ、9世紀末には老丁2人、正丁4人、中男3人を数えるだけとなり、10世紀の初めには1人の記載もなくなってしまったと述べられているが、それらの人々は、租庸調その他の負担を嫌い、出家になったり、戸籍、計帳を偽ったりして、帳簿のうえではついに記載ゼロになってしまったのであり、その多くは浮浪人という新しい労働力として荘園に組み入れられたのであろう。(2)中世以後、主家を離れたり、失ったりした武士をいう。戦国時代から関ヶ原の戦い、大坂の陣にかけて、諸大名は戦力の充実を必要としたので、牢人には主(あるじ)選び、すなわち自分の力量を十分に認めてくれる主人、将来性のある主人を求める余裕があり、したがって現在の主人に見切りをつけ、進んで牢人となる者もあった。牢人にも、〔1〕筋目のしっかりした武功の誉れの高い牢人で、家来の20人や30人を引き連れ、資金提供者があって、主家をより取りにできるような者もあれば、〔2〕実力もなく、悪事を働いて主家をほうり出され、だれも貢いでくれる者がない、尾羽(おは)うち枯らした牢人などもあった。しかし、江戸時代に入り、戦争のない時代になると、諸大名は譜代(ふだい)の家来の生活を優先させるために、新参者の人減らしを行い、また幕府の大名取潰(とりつぶ)し政策により牢人五十数万人が全国にあふれたといわれる。そうした社会不安から慶安(けいあん)事件(由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱)などが引き起こされたため、幕府は大名取潰しを緩和するなど牢人対策に腐心し、その減少を図った。再就職がむずかしくなると、主君や上役(うわやく)がどんなに凡庸でも、「御無理御尤(ごむりごもっとも)」と、それに従うようになる。そこから江戸時代の新しい武士道が生まれてきた。
鎌倉末期から室町時代にかけ、「牢籠(ろうろう)」といって、落ちぶれた、廃れたの意を表し、牢籠の人、牢人の語が用いられていた。江戸後期になると、牢人と浪人とが文字遣いのうえから混用され、幕末には浪人が主として用いられた。現代でも、「主家を離れた」の意の浪人が、会社、役所を辞めた者、上級学校入学を果たせないでいる者などに用いられている。
[進士慶幹]