本地垂迹美術(読み)ほんじすいじゃくびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「本地垂迹美術」の意味・わかりやすい解説

本地垂迹美術
ほんじすいじゃくびじゅつ

本地である絶対的理想の仏が、人間を済度(さいど)するために神と化して出現するという本地垂迹説による造形美術。単に垂迹美術ともいう。

 日本固有の原始的な民族宗教から発達した神道(しんとう)的な信仰は、すでに7世紀ごろからしだいに外来の仏教信仰と習合し始めた。その現象は、神前読経とか神宮寺(じんぐうじ)の創立とか、神に菩薩(ぼさつ)号を授けるとか、社僧を置き年中、神前において仏教的な法楽を行うといった形で現れ始めてくる。8世紀末には、全国の主要な神社で神宮寺の設置されていないところはないというほど、日本の神々は外来の「ほとけ」たちと深い接触と交流を完成する。そして9世紀になると、神々の姿は仏像と同様な造形技法によって表現されるようになり、平安初期の神像には現存するものもある。神仏習合は思想としてもしだいに高度な発達を遂げ、いわゆる本地垂迹の思想へと進んだ。久遠成実の仏陀(ぶっだ)が現世を利益(りやく)し、人々を済度するために権(かり)に姿を現したのが日本の神祇(じんぎ)であるとする思想である。この思想はしだいに理論づけられて、主要な神々にはみな本地仏が定められ、神仏のいずれを信仰し礼拝(らいはい)しても、結果は同じであるといった形で民衆に受け入れられることとなり、こうした考え方は、日本人の宗教体質として明治の初めに行われた神仏分離の時期まで長い間続いてきた。

 中世に入ると神像彫刻とあわせて神影像が描かれ、また本地仏とあわせて垂迹曼荼羅(まんだら)(神道曼荼羅)なども数多く製作されてくる。とくに優品の多いのは春日(かすが)信仰に関する美術品で、春日鹿(しか)曼荼羅、春日宮曼荼羅、春日本地仏曼荼羅など数多くが信仰されている。このほか、熊野(くまの)三山の信仰に基づく熊野曼荼羅、八幡(はちまん)信仰や山王信仰に基づく各種の作品が数多く伝存している。これらの作品はそれぞれ関係の深い寺院方でも、重要な法会・儀式の際には護法神としてまず道場に奉掛(ほうかい)し、これを神祇勧請(じんぎかんじょう)と称した。また民間でも、信仰をもって団結する地域の講中ではこれを本尊として掲げ、礼拝することによって信仰と団結をより高める方途ともされてきた例は多い。大和(やまと)地方の春日講、近江(おうみ)の山王講をはじめ、熊野信仰や八幡講は全国的な広がりをもって普及している。

 おもに本地仏を造形した御正体(みしょうたい)(懸仏(かけぼとけ))も、中世の習合美術を代表する民衆的な信仰としてその遺品が多い。また、中世の説話文学の隆盛に伴い、縁起絵詞(えことば)(絵巻)の製作も盛んに行われた。「春日権現霊験(ごんげんれいげん)記絵」「天神縁起絵巻」「山王霊験絵詞」「八幡縁起絵」などの優れた絵画資料は、宗教資料としても興味をひくものであり、その内容には思想のうえでも造形のうえでも、神仏習合の色彩を濃厚に表現しているものが多い。

[景山春樹]

『景山春樹著『神道の美術』(1965・塙書房)』『景山春樹著『神像――神々の心と形』(1978・法政大学出版局)』『佐々木剛三・奥村秀雄編『日本美術全集11 神道の美術――春日・日吉・熊野』(1979・学習研究社)』

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