奈良春日大社の神体山である御蓋(みかさ)山を背景に社殿や祭神などを描いた垂迹(すいじやく)画。平安時代末期から中世にかけて多く制作され,礼拝された。奈良時代以来,藤原氏一門は氏神の春日社と氏寺の興福寺に深い信仰を寄せていたが,平安中期ころから本地垂迹思想によって,両者はしだいに接近し,平安末期にいたり習合した神仏を具体的に表現した造形作品が制作されるようになった。その図様は種類が多いが,大別するとつぎの3種になる。(1)本地仏曼荼羅 春日社の本地仏については,最古の記録である承安5年(1175)の注進状に〈春日明神御体本地事,一宮鹿嶋武雷神不空羂索,二宮香取斎主命薬師,三宮平岡天児屋根命地蔵,四宮相殿姫命十一面,若宮文殊〉とあるが,以後の文献では一宮を釈迦とするなど,異説が多い。本地仏曼荼羅は,こうした本地の仏,菩薩を中心に春日社の景観を添えたもので,仏画のように礼拝された。(2)宮曼荼羅 社殿を中心に御蓋山を背にした社域を鳥瞰的に描いたもの。これに本地仏やその象徴たる梵字種子を添えることも多く,実際に春日社を参詣するように礼拝された。(3)鹿曼荼羅 神鏡や榊をのせた神鹿を描くことで春日明神を表現したもの。以上を基本形とするが,鎌倉後期にいたると,神国思想によって神仏習合は高揚期を迎え,春日曼荼羅の制作も飛躍的に増加し,形式も多様化する。春日の神域を浄土と認識することから,宮曼荼羅の上部に本地仏の浄土を描いた〈春日浄土曼荼羅〉,興福寺との一体化から,社景の下部にその伽藍を加えた〈社寺曼荼羅〉,また鹿曼荼羅からは,大明神が鹿に乗って鹿島から春日に影向(ようごう)したという草創伝説を絵画化した《鹿島立(かしまだち)神影図》などが出現した。このころには春日信仰も藤原氏専有のものではなく,興福寺を中心とした南都在地に浸透し,信仰自体が多様化するので,曼荼羅の形式も変化したものが多くなる。神影図からは,垂迹神だけが強調された〈垂迹神曼荼羅〉,さらに本地仏を加えた〈春日本迹曼荼羅〉などのほか,本地仏の中の地蔵や毘沙門天だけを強調した〈春日地蔵曼荼羅〉などもあらわれ,江戸期にいたるまで数多く制作された。
→垂迹美術
執筆者:川村 知行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
神道美術(垂迹(すいじゃく)美術)の絵画を代表する曼荼羅。鎌倉から室町時代にかけての遺品が多く、次の2種を総称する。(1)春日宮(みや)曼荼羅 春日大社境内の風景と祭神4社と若宮の5体の本地仏(ほんじぶつ)(釈迦(しゃか)、薬師、十一面、文殊(もんじゅ)、地蔵(じぞう))を描く。(2)春日社寺曼荼羅 画面の上半に春日大社の状景、下半は興福寺の堂塔伽藍(がらん)を描く。興福寺曼荼羅ともいう。また、春日鹿(しか)曼荼羅は、春日大社の影向(ようごう)にしたがって5仏を描いた神鏡をサカキにかけて、神鹿(しんろく)が鏡を負うように表現している。作例として静嘉堂(せいかどう)、京都国立博物館、陽明文庫の各本がある。さらに春日曼荼羅と浄土変相図を組み合わせた春日浄土曼荼羅も、のちに展開した。ただし春日四社の本地(ほんじ)のあて方には諸説がある。
[真鍋俊照]
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…広義の神道美術,仏教美術の一分野といえ,造形的にも思想的にも,きわめて日本的な特徴をもつ作品が多く,平安時代末期から中世にわたって制作された。代表的な作品は垂迹曼荼羅で,春日曼荼羅,山王曼荼羅,熊野曼荼羅,石清水曼荼羅などがある。それぞれにさまざまな変化があるが,基本形は,本地仏を密教の曼荼羅のように配した本地曼荼羅と,社殿,社景を浄土のように描いた宮曼荼羅の2形式である。…
※「春日曼荼羅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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