改訂新版 世界大百科事典 「垂迹美術」の意味・わかりやすい解説
垂迹美術 (すいじゃくびじゅつ)
平安時代後期に成立した本地垂迹説,すなわち神が本地である仏の垂迹として日本に権現したとする説に基づいて造形された美術。広義の神道美術,仏教美術の一分野といえ,造形的にも思想的にも,きわめて日本的な特徴をもつ作品が多く,平安時代末期から中世にわたって制作された。代表的な作品は垂迹曼荼羅で,春日曼荼羅,山王曼荼羅,熊野曼荼羅,石清水曼荼羅などがある。それぞれにさまざまな変化があるが,基本形は,本地仏を密教の曼荼羅のように配した本地曼荼羅と,社殿,社景を浄土のように描いた宮曼荼羅の2形式である。遺品は鎌倉時代のものから現存するが,初期の形態を示す作品は,春日曼荼羅の場合は根津美術館本のように社景を描いた宮曼荼羅であり,山王曼荼羅では滋賀県生源寺本のように仏画と区別しがたい本地曼荼羅なので,両形式は発生の事情を異にしている。
二つの形式はともに平安末期から文献に見え,《玉葉》の元暦1年(1184)5月17日条には興福寺から〈図絵春日御社〉が送られたこと,同年12月2日条には叡山から〈日吉御正体図絵〉の届いたことが記されるので,春日は興福寺で宮曼荼羅を,山王(日吉)は延暦寺で本地仏曼荼羅を作り出したとも考えられる。だが当時の状況では,本地垂迹説によって鏡面に本地仏を刻む御正体(みしようたい)(鏡像)が各地の神社にあり,これを絵画化した本地仏曼荼羅のほうが一般的で,この形式から本地仏を垂迹神にとりかえた形式,混合した形式などが生まれた。それに対して春日の宮曼荼羅の形式は,浄土の楼閣や阿弥陀を描いた浄土曼荼羅の影響によって(浄土教美術),社殿や社景を現実(世)の浄土として描いたものである。鎌倉時代初期の文献には,春日のほかにも回廊などをことごとく模した〈熊野三御山御宝殿図〉や石清水八幡の〈御山の図〉が見える。これらは本地垂迹説から,神の坐す神域が同時に仏菩薩の住む浄土として認識されたことにより,神仏の坐す春日浄土や熊野浄土が信仰されたためである。平安末期から各地の神社で大増改築が行われ,このころまでに春日や熊野が現在見るような壮麗な建造物になっていることも,現世に浄土を創造しようとしたものである。こうして生まれた宮曼荼羅は,浄土曼荼羅のように架空の姿を描くことは許されず,社景を忠実に,また細密に描写し,現実の風景であることを意識させるため《那智滝図》(根津美術館)のように写実的な風景描写となった。さらに本地仏形式から,社景に神仏を配すことによって,浄土としての認識を一層強め,二つの形式が融合して日本的な垂迹曼荼羅が成立した。
→神道美術
執筆者:川村 知行
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報