日本古来の神祇(じんぎ)信仰と仏教の仏菩薩(ぶつぼさつ)の信仰が同化する、いわゆる神仏習合に基づく考え方で、仏菩薩がこの世の人を救うために仮に姿を現すとし、仏菩薩を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする思想である。もとは『法華経(ほけきょう)』の本門・迹門、『大日経』の本地身・加持(かじ)身などの説に発し、歴史上の釈迦(しゃか)を永遠普遍の超越的な本仏の現れとする思想に基づく。
外来思想である仏教は早くから神祇との習合に努め、奈良時代には、神は仏をいれないとする抵抗を排除して、接近に成功した。神宮寺(じんぐうじ)の出現がそれで、698年(文武天皇2)伊勢(いせ)国(三重県)度会(わたらい)郡に遷(うつ)された多気(たき)大神宮寺が初見である。そして各地の大社に神宮寺の建立をみた過程で、神を罪業(ざいごう)の報いとする劣等感を神祇に植え付け、仏はその神を守るとした考え方や、逆に神は仏を守り、仏法を喜ぶとした考えを生み出したが、神仏の習合に積極的に働いたのは八幡(はちまん)神である。東大寺大仏の建立に協力した宇佐八幡がそれで、菩薩号が与えられたのは八幡神が最初である。こうした神仏習合の進行は神前読経(どきょう)、度僧、写経、写仏の盛行を生み、また寺中に寺を守る鎮守神を置くに至るが、八幡神が大安寺行教(だいあんじぎょうきょう)によって石清水(いわしみず)に勧請(かんじょう)された859年(貞観1)、天台僧恵亮(えりょう)が賀茂(かも)・春日(かすが)二神のために年分度者(ねんぶんどしゃ)を置くよう請うた表に初めて垂迹の語を用いたことは、習合が一段と進んだことを示している。「皇覚(仏)物(衆生(しゅじょう))を導くに且(かつ)は実、且は権(ごん)、大士(だいじ)(菩薩)迹(あと)を垂れて或(あるい)は王、或は神」と説いた。こうした素地は、937年(承平7)筑前(ちくぜん)(福岡県)筥崎(はこざき)宮の神宮寺多宝塔の建立を計画した天台僧兼祐(けんゆう)の申状の「権現(ごんげん)菩薩の垂迹」という表現を生み、神は仏菩薩が権(かり)に姿を現してこの世に迹を垂れたものとしたのである。こうして垂迹としての権現の思想は、平安後期には熱田(あつた)権現、蔵王(ざおう)権現などの権現を生み、それがその本地の明確化を要求するに至った。その初め、幽玄にして計りがたいとされた八幡権現の「本覚(本地)」が阿弥陀仏(あみだぶつ)とされ、熊野権現が弥陀・観音の垂迹とされるにつれて、やがて熊野三山の三所、五所王子などの本地が明らかにされることによって本地決定の傾向が一段と進んだ。またこの動きと呼応して天台、真言両宗では教義的裏づけが行われ、天台に山王一実(さんのういちじつ)神道、真言に両部習合神道が生じた。しかしこれら仏本神迹の説に対して、南北朝期には神国日本の理念にたって神本仏迹の神道論も生じ、北畠親房(きたばたけちかふさ)はその先駆けをなした。
[石田瑞麿]
日本の神祇と仏菩薩の関係を説くために考え出された理論を本地垂迹説という。本地垂迹の語はもと《法華経》寿量品にあり,永遠不滅の理想的釈迦を本地とし,歴史的現実の生身となって布教した釈迦を垂迹とするもので,これを神仏の関係に転用したのである。はじめ聖武天皇は東大寺大仏(盧舎那(るしやな)仏)を造立するにあたって橘諸兄や行基を伊勢神宮に遣わしその成就を祈らせ,その結果天照大神と盧舎那仏(大日如来)は同体であるとの夢告をうけたと伝え,朝廷は政策的立場から神仏同体の思想を打ち出したが,いまだ一般の思潮とはならなかった。しかし783年(延暦2)には八幡神に大菩薩の号を奉り,神祇が一段と仏尊の地位に近づいたことを示した。一方密教行者の山岳修行に伴い山の神祇が仏教化され,吉野の蔵王(ざおう)権現のように仏教の護法神とも結びつき,あるいは山中他界の祖霊信仰と弥陀,観音,弥勒等浄土の信仰が習合して熊野など各地の修験道では神仏はまったく対等かつ同体とする思想を生ぜしめ,中世に入るとほとんどの神社では祭神の本地となる仏尊名が定められ,仏本(地)神(垂)迹の説が一般化した。同時にそこから和光神明の慈悲利益(りやく)をはなれては仏法も成り立ち難く,釈迦も神祇の化儀なりとする神本仏迹の思想(反本地垂迹説)があらわれた。かくて天台・真言の顕密仏教から神道理論を構成する者があらわれ,天台では日吉社の山王一実神道,真言では大和の三輪神道や伊勢外宮を中心とする伊勢(度会)神道が発生した。伊勢神道は密教の胎蔵・金剛両曼荼羅を中心とする二元観をもって内宮・外宮の関係を説き,《神道五部書》をつくり,密教のみならず道教,陰陽道などさまざまの思想を混合して伊勢信仰の権威づけと神秘化をはかり神本仏迹説の奥儀を示した。やがて室町期,吉田兼俱が出て仏法は万法の花実,儒教は万法の枝葉,神道は万法の根本とする三教枝葉花実説をとなえ,陰陽道や道家思想をもって神祇の分類と体系化をはかった。それが《唯一神道名法要集》なる著作に結集され,ここに神本神迹説ともいうべき立場が成立し,本地垂迹説の時代は終わった。また民間では《神道集》や御伽草子本地物にみられるごとく,死後神にまつられた人間こそ人生における苦難の体験者として神にまさる尊さが仰がれ,人本神迹の思想が広がり,吉田神道の出現と相まって近世の儒家神道成立への道を開いた。
→神仏習合
執筆者:村山 修一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…平安時代末期から中世にかけて多く制作され,礼拝された。奈良時代以来,藤原氏一門は氏神の春日社と氏寺の興福寺に深い信仰を寄せていたが,平安中期ころから本地垂迹思想によって,両者はしだいに接近し,平安末期にいたり習合した神仏を具体的に表現した造形作品が制作されるようになった。その図様は種類が多いが,大別するとつぎの3種になる。…
…神前で読経を行い,仏事を営んだのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの仏・菩薩であり,日本の衆生を救うために姿を変えて神としてあらわれたという本地垂迹(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な釈迦との関係を説明するものであったが,それを応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々を,仏教に結びつけることが行われていた。…
…確かに,神道が思想として成立したのは中世以後であるが,神祇に対する信仰は古代からつねにあった。しかも奈良時代から1868年(明治1)の神仏分離令にいたるまでは,神仏習合・本地垂迹説によって神仏が矛盾なく同居して信仰された時代が1000年以上も続いていた。このような事実が見直され,神道美術の概念で,神仏習合による造形が総体的に把握されている。…
※「本地垂迹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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