20世紀日本人名事典 「本多庸一」の解説
本多 庸一
ホンダ ヨウイツ
明治期の牧師,教育家 日本メソジスト教会初代監督;青山学院初代院長。
- 生年
- 嘉永1年12月13日(1849年)
- 没年
- 明治45(1912)年3月26日
- 出生地
- 陸奥国弘前(青森県弘前市)
- 別名
- 幼名=徳蔵
- 経歴
- 弘前藩(別称津軽藩)藩士の長男に生れ、藩校稽古館に学ぶ。維新の際、菊池九郎らと共に奥羽列藩同盟のために奔走したが、のち藩論が変わると脱藩して庄内藩に走った。明治元年脱藩を許され弘前に帰る。3年弘前藩より選ばれ、横浜のブラウン塾、バラー塾で英語を学ぶ。廃藩により苦境が立つが5年キリスト教に入信しジェームス・バラーより受洗、横浜バンドの一人となる。東北地方伝道を志し、メソジスト監督教会牧師イングと弘前に帰り、7年藩校が改組された東奥義塾塾頭に就任、16年まで務めた。8年弘前キリスト公会を創設。その後メソジストに転じ、按手礼を受けて長老となった。郷里の政治運動にも努力し、青森自由民権運動を指導して14年国会開設建言書を提出。15年青森県議、同年県会議長となるが、19年以後仙台美以教会牧師、青山美以教会牧師など伝道に専心した。20年東京英和学校教授に迎えられ、21年渡米して神学を修め、23年帰国後同校総理(校長)、27年同校が青山学院と改称し初代院長に就任。以後40年まで在任し、同校の父と称せられる。日本のメソジスト三教派合同に尽力し、40年日本メソジスト教会の成立に伴い青山学院を辞してその初代監督となり、日本プロテスタントの伝道の代表的人物として重きをなした。また、これより先13年に日本キリスト教青年会(YMCA)の結成に参加してその指導にあたり、のちYMCA会長、福音同盟会長なども務めた。一方、日清戦争に際しては清韓事件基督教同志会を結成、征清軍慰問使として戦地に赴き、日露戦争では主戦論を唱えるなど、戦争遂行にも挺身した。「本田庸一説教集」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報