本町四丁目
ほんまちよんちようめ
[現在地名]鳥取市本町四―五丁目
本町三丁目より北西に続く両側町。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、町人地四〇町のうち下構二〇町の一町として起立された(因幡志)。池田光政時代この町の西側に多門という修験が居住していたので、「たもノ丁」ともいったとされる(鳥村志)。鹿野往来を挟んで北西に続く三軒屋町は、寛永九年(一六三二)の池田光仲入国ののち当町に合併したともいわれる。同一一年の竈数二八(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数一〇五、表口間数合せて二〇二間余、町役負担一〇五人余、賦課比率の等級は中に定められる。諸役御免の町年寄沢四郎左衛門自分屋敷ほか、大工頭大森善蔵・遠藤作兵衛、役者勝谷藤七・柄巻師佐藤久次郎らの拝領屋敷があり、計六五間余を占めていた(町方御定)。
本町四丁目
ほんちようよんちようめ
[現在地名]中央区日本橋本町二―三丁目
本町三丁目の東に続き、東は大伝馬町一丁目、北は岩附町と本石町四丁目、南は伊勢町河岸に接する両側町。東側の南北に通る横丁を大横町という。安永三年小間附町鑑によれば、京間一三〇間、公役金を負担。名主は本町三丁目と同じ。当町は徳川氏の関東入部以前に仕置場があったところと伝えられ、このため山王社(現千代田区日枝神社)と神田明神の神輿・練物は渡御しなかった(江戸砂子)。
本町四丁目
ほんまちよんちようめ
[現在地名]東区本町三―四丁目
本町三丁目の西にある両側町で、栴檀木筋から丼池筋を経て心斎橋筋まで。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図に町名がみえる。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数三五・役数四四役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は三木屋九郎兵衛。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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