本隆寺(読み)ほんりゅうじ

精選版 日本国語大辞典 「本隆寺」の意味・読み・例文・類語

ほんりゅう‐じ【本隆寺】

京都市上京区紋屋町にある法華宗真門流の総本山。正称は慧光無量山本妙興隆寺。長享二年(一四八八)日真が創建。六角西洞院(中京区)に開創し、本勝迹劣(じゃくれつ)説を主張した。天正一二年(一五八四)現在地に移転。

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日本歴史地名大系 「本隆寺」の解説

本隆寺
ほんりゆうじ

[現在地名]上京区紋屋町

智恵光院ちえこういん通以西の地を占める。山号は慧光山、本尊は十界曼荼羅。法華宗(真門流)本山。長享二年(一四八八)妙顕みようけん(現上京区)日具の弟子日真が本迹勝劣を主張して妙顕寺より分立し、六角西洞院ろつかくにしのとういん(現京都市中京区)に草庵を結び、題目釈迦多宝仏を安置したことに始まる。翌延徳元年(一四八九)四条大宮坊城おおみやぼうじよう(現同区)に堂舎を建立し、洛内法華二一本山の一として隆盛をきわめた。天文法華の乱で比叡山延暦寺衆徒により焼かれ、住持はさかい(現大阪府堺市)に逃れたが、天文一一年(一五四二)朝廷より帰洛を許され、西陣にしじん(現上京区)の杉若若狭守邸跡に再建され、天正一二年(一五八四)羽柴(豊臣)秀吉の都市改造政策で現在地に移った。

本隆寺
ほんりゆうじ

[現在地名]岡山市新庄上 山根

庚申こうしん山の南にある。法華宗本門流。一乗山と号し、本尊は十界勧請曼陀羅。江戸時代に作られた縁起や由緒書によると、嘉吉二年(一四四二)瀬戸内諸国を巡錫していた京都本能寺開山の日隆が当地留錫し、長老の川上道蓮・江本蓮光をはじめ新庄しんじよう村の村民一同を改宗受法させ、その外護で草堂を仮営したのが開創であると伝える。この嘉吉二年開創説に対して、天保一〇年(一八三九)当寺一四世日紹・惣代ら連署で本山本能寺に提出した本隆寺由緒(本能寺文書)は、享徳元年(一四五二)開創説を採っている。当寺は室町後期以降、讃岐本妙ほんみよう(現香川県綾歌郡宇多津町)と両山一寺の制をとって極めて関係が深い。同寺も当寺と同じく日隆によって嘉吉二年の開創、そして享徳元年には「本妙寺」の寺号を日隆から授与されている(本妙寺文書)近世寺記に見える嘉吉・享徳の二つの開創説は、双生児ともいうべき讃岐本妙寺の酷似した寺史と対比するとき、嘉吉は開庵の年、享徳はそののち寺基が安定して「本隆寺」の寺号を授与され、寺院としての寺観を整えた年と推定することもできる。

本隆寺
ほんりゆうじ

[現在地名]敦賀市色ヶ浜

いろはま集落のほぼ中央部の山縁にある。法華宗(本門流)。本尊十界大曼荼羅。「敦賀志」に「京都本能寺・摂州尼ケ崎両末、開基ハ日隆上人、応永卅三年村中疫癘にて憂苦の折から、日隆柴田某か家に宿り、其乞に因て村内なる大石幅九尺長一丈八尺許の上に坐し、祈祷せられしに、其しるし有て悉く平癒せしと云」と縁起を記している。

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