デジタル大辞泉
「李宗仁」の意味・読み・例文・類語
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り‐そうじん【李宗仁】
- 中国の軍人、政治家。広西省出身。いわゆる広西派の領袖。日中戦争中第五戦区総司令。一九四八年、国民政府副総統、四九年、総統代理になったが、人民共和国成立後、米国に亡命。六五年、帰国。(一八九〇‐一九六九)
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李宗仁
りそうじん / リーツォンレン
(1890―1969)
中国の軍人、政治家。広西省臨桂県生まれ。広西陸軍学堂を卒業。初め軍閥に身を投じたが1926年からの北伐で国民革命軍に入り、のちに蒋介石(しょうかいせき)と対立して広西に勢力を確立、白崇禧(はくすうき)と並び広西軍閥の二大巨頭とよばれた。1937年からの日中戦争で抗日戦線に協力、第五戦区総司令。1948年国民政府副総統、1949年総統代理となり、共産党との交渉にあたったが決裂してアメリカに亡命した。1965年人民共和国に帰国、国民党員の祖国復帰を呼びかけた。
[加藤祐三]
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李宗仁【りそうじん】
中国の軍閥,政治家。広西省の人。北伐では第3路軍総指揮兼第7軍長。1927年南京・武漢両政府間を調停し,一時蒋介石に代わって総司令となった。1929年以後蒋と反目,広西省の内治に専念。1936年広東・広西両省の反蒋抗日運動に失敗。日中戦争では安徽省主席,第5戦区総司令として台児荘で大勝利を得た。戦後は中国国民党副総統として,1949年1月国民党と中国共産党の間の和平工作を行ったが失敗。米国に亡命。1965年北京に帰った。白崇禧(はくすうき)と並ぶ広西軍閥の巨頭であった。
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李宗仁
りそうじん
Li Zong-ren
[生]光緒16(1890).9.16. 広西,桂林
[没]1969.1.30. 北京
中国の軍人。広西軍閥の領袖の一人。広西陸軍学堂を卒業し,広西軍閥陸栄廷麾下の旅長から国民党に入り,国民革命軍第3路軍総指揮兼第7軍長として北伐に参加。 1927年国民党中央執行委員に任命され,国民政府委員,軍事委員会委員を兼ねた。南京,武漢両政府の対立に際しては両者の間を調停し,蒋介石を下野に追込み,代って国民革命軍総司令に就任。蒋の復帰後,28年北伐再開とともに第4集団軍総司令に任命された。 29~30年蒋介石と対立し,広西にあって白崇禧とともに反蒋戦争を行なったが失敗。 36年両広の反蒋抗日運動にも失敗。抗日戦争に第5戦区総司令兼安徽省主席として従軍し,台児荘で勝利を収めた。 45年軍事委員会北平行営主任兼華北戦区総司令となり,48年国府副総統,49年1月蒋介石の引退声明のあと総統代理に任命され,国共和平交渉に失敗して,ホンコンを経てアメリカに亡命。 65年7月北京に帰った。翌年中華人民共和国成立 17周年式典に参加。 69年病死。
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李宗仁 (りそうじん)
Lǐ Zōng rén
生没年:1890-1969
中国,民国期の軍人,政治家。字は徳鄰。広西省臨桂県の人。1926年国民革命軍第7軍軍長として北伐に参加。北伐完成後,蔣介石により武漢政治分会主席,第4集団軍総司令に任命されたが,29年以降蔣介石と対立し,白崇禧(1893-1966)とともに広西軍閥の頭目として8年間割拠した。日中戦争では蔣介石と和解し,第5戦区総司令として従軍。45年以後も華北戦区司令長官を務め,国共内戦を指揮した。48年国民政府副総統,49年蔣介石の引退時には総統代理となったが,国民党軍の敗退で蔣介石とたもとを分かち,アメリカへ亡命した。65年本土に帰り,国民党員の祖国復帰を呼びかけた。
執筆者:森 時彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の李宗仁の言及
【軍閥】より
…同年末の張学良の〈易幟(えきし)〉によって蔣介石による全国統一が完成するが,それは国民党の新軍閥化とむすびついていたのであって,南京国民政府は非北洋系軍閥の寄合所帯となったのである。西北の馮玉祥,山西の閻錫山(えんしやくざん),広西の李宗仁,広東の李済深がそれで,彼らは1929‐31年にかけて反蔣戦争を発動し,広東独立をおこなった。英米が蔣介石をおしたのに対し,反蔣派は日本にちかづいた。…
【中華民国】より
…五・三〇運動に端を発した[省港ストライキ]が16ヵ月にわたって戦えたのも広東政府が存在すればこそであった。もちろん政府の方も人民大衆に依拠することによって強化されたのであって,広東政府は陳炯明(ちんけいめい)に代表される広東省内の反対勢力を討伐するとともに,西南とくに李宗仁の新広西軍閥を味方につけ,いよいよ北伐に乗り出すことになる。26年7月,国民党中央執行委員会常務委員会主席,黄埔軍官学校校長の蔣介石が国民革命軍総司令となって北伐は開始された(党主席は北伐期間中は張人傑が代理を務めた)。…
※「李宗仁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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