中国、明(みん)代の本草(ほんぞう)学者。『本草綱目』の著者。字(あざな)は東璧。晩年は瀕湖(ひんこ)山人と号す。産薬地として知られる蘄州(きしゅう)(湖北省蘄春県)の生まれ。祖父も父の言聞も医者である。生後すぐ母が病み、自身も幼時から病弱であったため医書に親しんだ。14歳で科挙の受験資格を得たが三度郷試(きょうし)に失敗、父業を継いで貧民の治病にあたり、有名になった。1557年に楚(そ)王府の奉祠正(祭祀(さいし)礼節などをつかさどる官)となって良医所(侍医、お抱え医師)の職務を兼ね、1558年ごろ中央の太医院(医療をつかさどる国の役所。いわば国立病院)の院判(副長官、副院長)に推されたが、1年ほどで辞して故郷に帰った。各地を訪ねて薬物採集や民間の処方・療法の調査などをして資料を集め、1552年から編撰(へんせん)に着手した。『本草綱目』を1578年に完成。1590年に刊行が開始され、死後の1596年に完了、次子建元が刊本を神宗に献上した。同書は日本をはじめ、英・仏・独語などに訳され、東西の諸国に影響を及ぼした。
[宮島一彦]
『木村康一他註、鈴木真海訳『新註校定国訳本草綱目』17巻・別冊3巻(1973~1978・春陽堂書店)』
中国,明末の医師で,《本草綱目》の著者として知られている。伝記には不明の部分が多く,生没年も近年の研究によって明らかになったが,まだ完全には解決していない。字を東璧といい,晩年には瀕湖山人と称した。中国の書で彼を瀕湖と呼ぶことのあるのは,そのためである。湖北省の蘄州(きしゆう)の人で,祖父の代からの民間医の家に生まれ,彼自身も短期間官に就いたことがあるだけで,大部分は民間医として過ごした。《本草綱目》は彼が独力で医業のかたわら編纂した本草書で,1552年(嘉靖31)に着手し,一応の完成をみたのが78年(万暦6)であるという。しかし,その後も出版者を探しながら増補訂正を重ね,最終稿ができたのは70歳過ぎで,初版が刊行されたのは彼の死後間もなくであろうとされている。この書は臨床応用を主目的としたものと思われ,彼が日夜診療に努力したことを示している。彼の著書にはこのほかに《瀕湖脈学》《奇経八脈考》《脈訣考証》などがある。
執筆者:赤堀 昭
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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