デジタル大辞泉
「杜世忠」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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と‐せいちゅう【杜世忠】
- 元の世祖フビライの臣。官は礼部侍郎。文永の役後、建治元年(一二七五)元の正使として来朝したが、鎌倉龍ノ口で斬首された。(一二四二‐七五)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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杜世忠 と-せいちゅう
1242-1275 元(げん)(中国)の国使。
脱列哥那元年生まれ。世祖フビライにつかえ,礼部侍郎(れいぶじろう)(次官)となる。文永の役の翌年の文永12年,日本に服属を勧告するための正使として長門(ながと)(山口県)室津(むろつ)へ到着。鎌倉におくられたが,建治(けんじ)元年9月7日竜の口で副使何文著(か-ぶんちょ)ら一行とともに斬殺された。34歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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杜 世忠
とせいちゅう
1242〜75
鎌倉中期に来朝した元の使者。蒙古人
文永の役の翌1275年に漢人の何文著 (かぶんちよ) とともに宣諭日本使(服属を諭 (さと) す)として世祖フビライが派遣。高麗を経て長門の室津に上陸,大宰府から鎌倉に護送され,竜ノ口で斬られた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の杜世忠の言及
【元】より
… 鎌倉幕府は元の再襲に備えて[異国警固番役]を設け,[石築地](いしついじ)を築き,博多湾一帯の防備を厳重にした。75年(建治1)4月元使杜世忠らが長門に到着したが,同年9月鎌倉竜口で斬られた。一方,日本から高麗を逆侵攻する異国征伐の計画がたてられたが,実現しなかった。…
※「杜世忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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