東京宝塚劇場(読み)とうきょうたからづかげきじょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東京宝塚劇場」の意味・わかりやすい解説

東京宝塚劇場
とうきょうたからづかげきじょう

劇場名。東京・有楽町にあり、1934年(昭和9)1月開場。当時の客席数2500。宝塚少女歌劇の創設者小林一三(いちぞう)が宝塚少女歌劇の東京進出のため建設した。グランドレビュー『花詩集』などでオープン、宝塚だけでなく東宝演劇の中心的劇場として東宝劇団、ロッパ一座など多彩な公演の場となった。45年(昭和20)進駐軍によって接収され、アーニーパイル劇場の名称のもと米軍専用劇場となったが、55年1月接収解除、4月劇場名を旧に戻し再開場。以来、東宝歌舞伎(かぶき)、ミュージカル宝塚歌劇などを上演した。

 しかし設備の老朽化と東宝の日比谷(ひびや)再開発計画によって1997年(平成9)12月で劇場を閉鎖、新劇場の建設を始めた。その間宝塚歌劇は帝国劇場、さらにJR有楽町駅前に仮設された「TAKARAZUKA 1000days劇場」(98年5月開場、客席数2000)で99年12月13日まで公演を続けた。新劇場は旧劇場の敷地の跡に建設された地上19階、地下4階の高層ビルの1階から6階までを占め、客席は3、4階で2069席。2001年の元旦に月組公演でオープンした。新劇場は宝塚歌劇専用劇場として運営されている。

水落 潔]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東京宝塚劇場」の意味・わかりやすい解説

東京宝塚劇場
とうきょうたからづかげきじょう

東京都千代田区有楽町にある劇場。 1932年小林一三が宝塚少女歌劇の東京公演の場として建設,34年に開場した。間口 24m,奥行 14mのレビュー用舞台をもち,客席は3層,2477席。この劇場建設を機に株式会社東京宝塚劇場が設立され,のちの東宝となった。第2次世界大戦では焼失を免れ,戦後は「アーニー・パイル劇場」の名称で占領軍に使用された。 53年東宝に返され,以後長谷川一夫の東宝歌舞伎の本拠地として,また大衆演劇やミュージカルの劇場として知られる。 63年には日本初のブロードウェー・ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が上演された。

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デジタル大辞泉プラス 「東京宝塚劇場」の解説

東京宝塚劇場

東京都千代田区にある劇場。2001年開館。宝塚歌劇団の公演が行われている。

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世界大百科事典(旧版)内の東京宝塚劇場の言及

【劇場】より


[劇場の多様化]
 震災後に,復興または新しく建設されたおもな劇場は,24年に本郷座・演伎座・松竹座・市村座・帝国劇場・邦楽座に前記の築地小劇場,25年の歌舞伎座とつづく。25年に新たに新橋演舞場,30年に大阪四ッ橋の文楽座や東京劇場,32年に大阪歌舞伎座,33年に有楽町の日本劇場,34年に東京宝塚劇場,35年に有楽座,37年に浅草の国際劇場などが次々に竣工した。大正から昭和へかけて,歌舞伎・新派・新国劇・歌劇・バレエ・新劇・文楽や舞踊などが,上記の劇場はもとより巡業先の各地の劇場やホールで,撩乱たる多様化と繁栄の時代を迎えたのである。…

【東宝[株]】より

…宝塚少女歌劇の東京公演のために,小林一三が1932年8月設立。34年東京宝塚劇場を開場した。続いて翌年には有楽座を完工し,やがて日本劇場,帝国劇場をも傘下に加えて,アミューズメント・センターと呼称し,従来松竹がほぼ独占した形であった商業演劇の世界に進出し,ついには興行界を松竹と二分するまでに至った。…

※「東京宝塚劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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