洞光寺(読み)とうこうじ

日本歴史地名大系 「洞光寺」の解説

洞光寺
とうこうじ

[現在地名]広瀬町広瀬

鍛冶かじ西方山麓にある。金華山と号し、本尊釈迦如来曹洞宗。当寺はもと富田とだ金尾かなおにあり、金尾寺とも称した(「二宮俊実覚書」吉川家文書)。明応年中(一四九二―一五〇一)尼子経久の父清貞(戒名洞光寺殿華山常金大居士)菩提のために建立され、開山は経久の帰依した大拙真雄(日本洞上聯燈録)。天文一二年(一五四三)大内義隆軍勢富田城を攻めたとき、当寺中でも合戦があった(前掲覚書)。大拙真雄は定光じようこう(現鳥取県倉吉市)の機室を師とした僧で、その関係から定光寺を本寺とし、江戸時代には松江清光せいこう院など末寺一〇を数え、常恒会地の寺格を有していた(広瀬町史)

洞光寺
とうこうじ

[現在地名]穴水町前波

前波まえなみ集落から北西に約一キロ離れた台地上に位置し、桂林山と号し、曹洞宗、本尊釈迦如来。永享三年(一四三一)甲山かぶとやま城主平楽右衛門尉の建立と伝える。塔頭として天文五年(一五三六)大蓮だいれん寺、元和二年(一六一六)長雲ちよううん(現廃寺)慶光けいこう(現廃寺)を洞光寺住職が建立したという。なお洞光寺の創立には異説もある。慶長七年(一六〇二)の鵜川天神堂奉加札(能都町菅原神社蔵)に「壱斗三升 米 洞光寺」とある。

洞光寺
とうこうじ

[現在地名]松江市新町

床几しようぎ山の北麓に位置する曹洞宗寺院。山号は金華山、本尊は釈迦如来。戦国期に尼子経久が父清定の追福のため富田とだ城下(現広瀬町)金尾谷かなおだに一宇を建立。伯耆倉吉の定光寺四世大拙真雄を請じて開山とし、清定の法名洞光寺殿華山常全大居士にちなんで寺号を洞光寺としたという。「松江市誌」には文明二年(一四七〇)の開山とあるが、清定の没年からみて同一二年の誤りであろうか。経久の孫晴久の頃には出雲国内における曹洞宗の僧録であった(雲陽誌)。永禄九年(一五六六)の富田落城の際に古文書伝記などを失ったが、毛利氏の治世となると毛利元就が寺領一〇〇貫文余を寄進、次いで堀尾吉晴の松江移城に伴って当寺も現在地に移転した(同書)

洞光寺
とうこうじ

[現在地名]四賀村錦部 反町

小丘陵の麓にあり、高野山真言宗。寺は東面し大門が東の街道に開く。

享保九年(一七二四)の「信府統記」によると山号を「能作性徳山大円洞光寺」と称し、「高野山金剛三昧院末寺ナリ、会田組苅屋原村ニアリ、当寺ハ弘法大師ノ開基、天長年中ニ建、古来ノ縁起等中古焼失ス、本尊ハ薬師如来、大師ノ作ナリ、門前ニ大師ノ袈裟掛松トテ老木アリ、寺境地ニ大洞ト云フ所アル故ニ、今ハ大洞山ト号シテ、実ノ山号ヲ知ル人少シトナリ」とある。古代錦服にしごり郷に置かれたと推定される錦織にしごり寺の後身にあてられる。

洞光寺
とうこうじ

[現在地名]篠山市東本荘

東本荘ひがしほんじよう北部にある。曹洞宗。宝鏡山と号し、本尊は十一面観音立像。応安七年(一三七四)天鷹祖祐(富樫秀家の次男)の開基と伝え、随行していた家臣二人は門前に居を構え、守護にあたったという。室町時代には丹波三ヵ寺の一つに列せられ(丹波志)、天正七年(一五七九)明智光秀の丹波攻めにより焼失したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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